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「萌え」の構造

▼「萌え」の構造 ~聖と俗の幾何学~

以前見た落語の枕でこういうものがあった。
「えー、最近の日本では秋葉原が元気だってね。メイド姿のおねーちゃんや、妙な格好した若い子がいっぱいいるんだそうで。外人なんかも観光名所として秋葉原によく来るらしくて、日本といったら「ワビ」「サビ」と「モエ!」(客席爆笑)」
つまらぬ。
まったく笑えぬ。
しかしこの私の笑えなさと、笑っている客の溝に、現在の「萌え」をめぐる言説の問題がある。

漫画やアニメなどのサブカルチャーが、日本の誇る文化となって久しいが、それに付随する「萌え」について語るとき、人は即座に、メガネをかけリュックを背負い巨体を揺らしながら歩くモビルスーツのような典型的なオタクを思い浮かべる。このイメージは海外における日本人の典型的イメージ「メガネをかけて首からカメラをさげたエコノミックアニマル」というのとなんら変わらない。そこには先の落語のように、内実を知らずにイメージだけをもてあそぶ空疎さしかない。しかし「萌えは日本独自の誇るべき文化だ!」という今となってはありふれた主張が、多くの人の眼にはまだ滑稽に映るのも確かである。これは「萌え」を誰も、客観的視点からきっちりと位置づけることができていないからだ。
かつてオタク文化が日本独自のものでしかなかった時代があった。そのとき、岡田斗司夫は「おたく」を「オタク」にし、確信犯的に日本の伝統文化の流れの中に位置づけようとした。その戦略は成功し、いまや「オタク」は世界で受け入れられ「OTAKU」になった。説の正統性はともかく、他の文化と接続可能なだけの説得力があったのは確かである。そして、金の匂いをかぎつけた大人達が投下した資本によって市場が賑わい、コンテンツが増加する。その大人たちの欲望の上に、現在の我々の充実したオタクライフは成り立っている。本来のオタクは大人の入る余地がない独立した子供の王国だったはずだ――などと嘆いても仕方ない。現在の状況を作り上げたのは、まぎれもなく消費者である我々なのだ。この「萌え」をメインにした現在のオタク文化の在り方も、我々自身から生まれたものであることを受け入れなくてはならない。
オタク文化と違い、主観的な感情である「萌え」は感じるもので、語るものではないのかも知れない。もうしそうだとすれば、それは少数派だけのものとなり、いつかは消えていくだろう。「萌え」が世界に誇る文化だと言うのも、結構。しかし、それを言い切るならば、その者には説明責任がある。かつて「オタク」を世界に説明した岡田斗司夫のように。
今回の原稿のお題が「宮崎駿」「押井守」「庵野秀明」「新海誠」それぞれの萌えについて、ということなので、まずは前提である「萌え」についての定義をしなければ話を進められないので、今から私なりに「萌え」の構造を解析する。

「萌え」についての解説はこれまで様々な場所でなされてきた。その最大公約数的な意見としては「架空のキャラクターへの愛情を表す言葉」「名状しがたい愛情の高まりをあらわす」というものだろう。だが、実際にあるキャラクターを見せて「yes/no=萌え」を判定したところで、ブレが起きるのは必至。萌え、についての認識は世代や属している文化圏によって、この国内ですら統一されていないのが正直なところだ。無作為抽出で統計を出せばかなり傾向が見いだせるだろうが、それはまだ現実的ではない。だが、確かに「萌え」は存在している。それがオタク以外の人々の間でも使われていることを鑑みるに、日本人が潜在的に持っていた「なにかもやもやした名付け得ぬ感情」に名前がついたものではないか。つまりあらかじめ感じていた、「愛」とも「恋」とも言えない名状しがたい複雑な感情こそが「萌え」である。
ここに私はひとつの先例を見る。

「いき」という現象はいかなる構造をもっているか。まず我々は、いかなる方法によって「いき」の構造を闡明し、「いき」の存在を把握することができるであろうか。「いき」が一の意味を構成していることはいうまでもない。また「いき」が言語として成立していることも事実である。しからば「いき」という語は各国語のうちに見出されるという普遍性を備えたものであろうか。(九鬼周造『「いき」の構造』)

昭和初期に書かれた九鬼周造の『「いき」の構造』は、日本人特有の「いき(粋)」について、その構造を分析するというまったくもって野暮な思想書であるが、ここで論じられている「いき」を「萌え」に置換して読むと、驚くほどにその類似が認められる。
九鬼はまず、先のように「いき」という言葉が他の国にあるかどうかを照査する。
その結果として、

要するに「いき」は欧洲語としては単に類似の語を有するのみで全然同価値の語は見出し得ない。したがって「いき」とは東洋文化の、否、大和民族の特殊の存在様態の顕著な自己表明の一つであると考えて差支ない。

「オタク」や「萌え」も、同じく、海外に紹介するにあたって難しかったのは、それに類似する語がなかったからである。
ここから九鬼は「いき」の構造を解析しはじめるのだが、私はとりあえず、それをなぞりながら「いき」と「萌え」を置換してその共通点を探っていこうと思う。「いき」と「もえ」の置換を行っていくと、ある時点でその代入が成り立たぬ項が現れる、それこそが「萌え」が姿を現す瞬間である。さて、それはいかなる部分であろうか。

まず、九鬼は「いき」を内包的観点と外延的観点にわけて説明する。その後、自然的表現、芸術的表現と移るが、この後者二つはここでは切り捨てる。なぜならば「いき」と「萌え」は似ているが、最終的には非なるものであり、表出部分としての後者二つは自ずとまったく違うものであることが自明だからである。私が手がかりにしたいのは「いき」と「萌え」の類似性である。
では内包的観点の三つから始める。即ち――「媚態」「意気地」「諦め」である。順番に照らし合わせてみよう。

・第一の「媚態」について。

媚態とは、一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。そうして「いき」のうちに見られる「なまめかしさ」「つやっぽさ」「色気」などは、すべてこの二元的可能性を基礎とする緊張にほかならない。(中略)異性が完全なる合同を遂げて緊張性を失う場合には媚態はおのずから消滅する。(中略)媚態は異性の征服を仮想的目的とし、目的の実現とともに消滅の運命をもったものである。

媚態の強度は異性間の距離の接近するに従って減少するものではない。距離の接近はかえって媚態の強度を増す。

ここで重要なのは、媚態の本質的要素が「不可能性」に立脚していることであろう。つまり、宙吊りの関係性においてしか「媚態」は成立しないのである(言うまでもないが、キャバクラはこの媚態をうまく利用したサービス業である)。だが、相手が現実の女性である場合、その一線が越えられたとき、媚態は幻のように消滅する。故に、

「継続された有限性」を継続する放浪者、「悪い無限性」を喜ぶ悪性者、「無窮に」追跡して斃れないアキレウス、この種の人間だけが本当の媚態を知っているのである。そうして、かような媚態が「いき」の基調たる「色っぽさ」を規定している。

要するに、アキレスと亀のパラドックスのように、限界まで近づいても追い越すことが叶わぬようなものこそが媚態なのだ。もっと単純に言えば「すんドめ」のことを言っているわけである。「萌え」に関して言えば、その対象があらかじめ主体を持たない架空の存在であるが故に、望む望まないにかかわらず、「萌え」者たちは苦しみと歓喜のもと、究極の媚態を体験することとなる。この点で「いき」に内包されている「媚態」は「萌え」にも内包されており、しかもそれは「いき」の「媚態」よりも強度の高いものであることが指摘できる。

・第二に「意気地」。

「いき」には、「江戸の意気張り」「辰巳の侠骨」がなければならない。「いなせ」「いさみ」「伝法」などに共通な犯すべからざる気品・気格がなければならない。「野暮は垣根の外がまへ、三千楼の色競べ、意気地くらべや張競べ」というように、「いき」は媚態でありながらなお異性に対して一種の反抗を示す強味をもった意識である。

「侠骨」「反抗」――「萌え」には無関係に思えるキーワードであるが、考えてみれば自らの生活を破綻させてまでグッズを買いあさるオタクたちにはある意味で「侠骨」があると言えまいか。そして、もともと大人に対するカウンターであるオタク文化から生まれた「萌え」にはあらかじめ「反抗」が備わってる。さらに“「いき」は媚態でありながらなお異性に対して一種の反抗を示す強味をもった意識である”これはまさに、オタクたちにおなじみ「ツンデレ」の心意気だ。

理想主義の生んだ「意気地」によって媚態が霊化されていることが「いき」の特色である。

ここで言う「意気地」とは意地でも実体には触れぬ覚悟のようなものと言えよう。その覚悟が高まって一種の矜持にまで高まることを「霊化」と呼んでいるのである。「萌え」においては「意気地」などなくても強制的にそれは発動している。なぜなら対象を所有しようとする消費行為(たとえばフィギュアやグッズを買うなど)そのものが自らの頸を絞める行為なのだから、そしてそれには終わりがない。強制的に覚悟させられる結果となる。ここで、理想主義の「意気地」もまた「萌え」に含まれ、なおかつ純度の高いものであることが判明する。

・第三に「諦め」である。

「いき」の第三の徴表は「諦め」である。運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心である。「いき」は垢抜がしていなくてはならぬ。あっさり、すっきり、瀟洒たる心持でなくてはならぬ。

この項目はかなり厳しいかも知れぬ。「萌え」の渦中にあるオタクたちは“執着を離脱した無関心”とは逆に、執着と欲にまみれた存在であるからだ。しかし、

「いき」のうちの「諦め」したがって「無関心」は、世智辛い、つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢抜した心、現実に対する独断的な執着を離れた瀟洒として未練のない恬淡無碍の心である。(中略)婀娜っぽい、かろらかな微笑の裏に、真摯な熱い涙のほのかな痕跡を見詰めたときに、はじめて「いき」の真相を把握し得たのである。「いき」の「諦め」は爛熟頽廃の生んだ気分であるかもしれない。またその蔵する体験と批判的知見とは、個人的に獲得したものであるよりは社会的に継承したものである場合が多いかもしれない。それはいずれであってもよい。ともかくも「いき」のうちには運命に対する「諦め」と、「諦め」に基づく恬淡とが否み得ない事実性を示している。

“爛熟頽廃の”果ての「諦め」にまで達していない「萌え」は、そこにおいて、「いき」と一線を画しているのやも知れぬが、もうひとつの可能性も検討せねばなるまい。即ち――もしかすると現在の「萌え」とはまだ完成されていないのではないか? 過渡期にあるのではないだろうか、という疑問である。これは重要な問題なので、後述する。

・外延的観点

前節において、我々は「いき」の包含する徴表を内包的に弁別して、「いき」の意味を判明ならしめたつもりである。我々はここに、「いき」と「いき」に関係を有する他の諸意味との区別を考察して、外延的に「いき」の意味を明晰ならしめねばならない。

つまり九鬼はここで「いき」に関わる言葉の数々を天体のように浮かべ、各々の引力の均衡の隙間に「いき」を発見しようとする。私も、本来ならば同じくここで「萌え」に関連する言葉を並べ、外延的に理解しなくてはならないのだが、内包しているものが似ているはずの「いき」と「萌え」は外延的には相当乖離してしまう。たとえば「いき」に関するパラメーターは「上品―下品」「派手―地味」「意気―野暮」「渋味―甘味」などであるが、これを「萌え」でやろうとするとどうにもうまくいかない。根本的にパラメーターの設定が違う。この原因はおそらく、外部の環境との差である。「いき」が多くの無意識の大きな社会的背景を持つのに対して、「萌え」はもともとオタク文化という閉塞した背景しか持たないものなのである。よって外延的なもののパラメータの数が少ないのは頷ける。
それでは萌えはパラメーター化不可能なのか?
否。
まずこの図を見て頂きたい。


結論からいえば、これが現在流布している意味での「萌え」の構造である。
カワイイ、エロい、カッコイイの三角形がまずあり、その中心を虚実の軸が貫く。「虚」である上部が主にアニメなど虚構にたいする萌え、「実」である下部がアイドルなど肉体を持った存在に対する萌えだ。「萌え」とはあらかじめ虚構に対する萌えではなかったか? と訝るのはもっともであるが、アイドルはほぼ絶対に手が届かない存在であってこそのアイドル。その意味では、架空の存在と変わりない。ちなみにアニメであってもリアリティを追及したものは、この「実」軸方向にある。
「萌え」はこの立体の点「P」を中心として高速運動し続けている。決して静止してはいないが、その運動には偏りがある。たとえばその偏りを、実際に作品の傾向に当てはめてみるとこうなる。
エロ・カワ――多くの萌えアニメの基本である。キャラクター属性で言えばドジッ子や幼馴染み。作品「うる星やつら」「To Loveる」
カワ・カコ――属性で言えば子供向け戦闘美少女。男の子、女の子共に支持される傾向がある。作品「美少女戦士セーラームーン」「プリキュア」
エロ・カコ――属性で言えば青年向け戦闘美少女。年上、姉。「キューティーハニー」「Fate/stay night」
これはあくまで要素の過多であって、全体を動き続けている「萌え」にはあらかじめエロ・カワ・カッコ、虚実がすべて含まれている。細かいキャラクターやアイドルは割愛する。同じように分類してみていただければ幸いである。

ここで読者が気になるのはエロという部分かも知れぬ。私は「萌え」がエロティシズムと結びつくことを否定しない。個人的にはどちらかというと「萌え」は精神的な愛情に近いと考えるが、愛か性欲かなどというのは幼稚な二元論でしかなく、実際はもっと複雑であろう。ちなみに「萌え」ているキャラクターのグッズを買い集めるオタクたちが純粋な存在であるというのはまやかしである。なぜならば、消費行動は明らかに主体に対する「所有欲」であり、そこには相手への支配欲が見え隠れするからだ。しかしながら、それを認識していれば罪悪感を持つ必要などまったくない。それは人間として極めて自然なことである。純粋か不純かで、対象に対する愛情の量が決まるわけではない。「萌え」は自己完結している行為なのだから、他者を傷つけなければそれで良い。
さて、ここでぼんやりと「萌え」の構造が見えたところで監督たちの分析に移りたいが、その前にまだやるべきことがある。
先に述べた――もしかすると現在の「萌え」とはまだ完成されていないのではないか? 過渡期にあるのではないだろうか――という疑問。これを解決したい。
経験的に言えば、オタク文化に不慣れな人がキャラクターを見たときに、時折嫌悪感を起こすことがある。あるデフォルメがAにとっては快感でもBにとっては不快であるというようにだ。これは「萌え」とは逆のいわゆる「萎え」である。「快楽とは薄められた苦痛である」というサドの言葉を引くまでもなく、純粋な「萌え」の裏には隠された「萎え」が存在しているのではないか。従来の「萌え」はそれを極力排除する方向で先鋭化してきたが、多様化するにつれて「ヤンデレ」など、闇の部分を背負った萌えキャラが登場してきた。もはや先程の「萌えの六面体」だけでは説明ができない。
ならば最終的な「萌え」の構造、とはいかなるものか?
それはこういったものではないだろうか。

前出の「萌えの六面体」の背後にある「萎えの六面体」。この二つの立体の中心点「P」の間にこそ「真の萌え」が存在している。ちなみに「萎え」は単純にネガティヴな側面しかないと思われがちだが、よく見ると「エログロ」「キモカワ」「ダサカッコイイ」など、「萌えの六面体」との距離によっては複雑な味を持った肯定的感情(シャレに近いかも知れないが)に変化することがある。「真の萌え」は、萌えと萎えが絶妙に釣り合う重力の均衡点に存在しているのではあるまいか。

ここにおいてやっと当初の目的である監督それぞれの萌え、について語ることができる。4人の監督についてこの図にあてはめると、
宮崎 駿――エロ・カワ 虚(グロ・キモ 実)
押井 守――エロ・カコ 実(グロ・ダサ 虚)
庵野秀明――エロ・カコ 虚(グロ・ダサ 実)
新海 誠――カワ・カコ 実(キモ・ダサ 虚)
という分類となる。()内はその監督の作品における「萌え」の背後にあるものを示している。表面的にはファンタジックなロリコン世界(失敬)を描く宮崎駿監督であるが、その背後に抑圧されているのは、恐ろしく生々しい欲望だ。そして我々は無意識でそれを理解している。無意識に、とつければなんでも言えてしまうのだが。ここでひとつ例をあげよう。かつてポスト宮崎駿としてジブリ内で仕事をしていた細田守監督が、とある理由からジブリを去ったというのは有名な話である。その宮崎駿への複雑な感情を昇華させた作品「劇場版ワンピース オマツリ男爵と秘密の島」を見ると、明らかに()内に指摘されたものが表出している。そこには「萌え」とはまったく違うながらも、見る人を魅了せずにおられないなにかが確かに存在している。

多くの人が完全なる美を好むわけではないのと同じように、オタク全員が「真の萌え」を好むわけではない。人それぞれ性癖の歪みはあるものだ。その位相のズレが「ツンデレ」「ヤンデレ」はたまた「エログロ」「キモカワ」になって表出しているのでなかろうか。萌えの六面体のみに注目するならばそれはあまりに脆弱なものとなるだろう。我々は、まだまだこれから先も発見されるであろう新たな「萌え」を柔軟に受け入れなくてはならぬ。そして「萌え」によって文化を支えようとするならば、無理解な人々と対話しなければならぬ。そこには場末の飲み屋の女の子に対する届かぬ思いを「萌え」と称する者もいるだろう、そのようなときあなたは激しい怒りを覚える。だがしかし、それさえも誤差が大きいが「萌え」の一形態としておいたほうが我々の未来には都合がよい。オタク世界だけの「萌え」にこだわっていては、外部の人々のアニメ絵に対する嫌悪を理解できない。必要なのは「萌え」だけではなく背後にある「萎え」にも目を向けることである。誰も真実の萌えにはまだ到達していない。オタクたち当人ですらも。そして私ですらも。そのことを分からずして無理解な他の文化や人々を攻撃したり、原理主義的な負の選民意識を持つのは、まったくの「野暮」であり「下品」である。

(初出:國文學 萌えの正体 2008年 11月号「萌えの構造」

参考資料:

[`evernote` not found]

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