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「愛についての感じ、ください」番外編

世の中、好みが人を反映すると信じられている。
しかし、頭の良い人は『頭が良くなる本』は買わないし、バカは『バカになれる本』は買わない。そういうふうに、リストによって欲望が逆照射されることもある。
以下、先日の講座のなかで紹介した書物リスト。手に入ったり読んでいたりするメジャーなセレクトにしてみました。

†書物のなかの愛の感じ†


変愛小説集

あのね。わたし、木に恋をしてしまった。どうしようもなかったの。花がいっぱいに咲いていて。(「五月」)

あたしたちはファックするんじゃない、愛し合うのよ、と言った。やめてくれよ、と僕は言った。「ファックして」でもその日バービーはそう言って、僕はもうそろそろ終わりが近いと感じた。「ファックして」とバービーは言った。下品な言葉だと僕は思った。(「リアルドール」)

放浪の天才数学者エルデシュ

ロシア人の数学者たちがハンガリーに一文無しでやってきたとき、かれは自分のあり金すべてをかれらにあげてしまった。「かれはまた、自分が本当は好きではなくても、人が大事にしていることを大事にしてくれた。たとえば、かれは犬が好きではない。犬が彼に近寄ってくるたびに、『あのファシスト犬はわしを噛むかね?』といったものだ。

日輪・春は馬車に乗って 他八篇 (岩波文庫 緑75-1)

「この花は馬車に乗って、海の岸を真っ先に春を撒き撒きやって来たのさ。」
妻は彼から花束を受けると両手で胸いっぱいに抱きしめた。そうして、彼女はその明るい花束の中へ蒼ざめた顔を埋めると、恍惚(こうこつ)として眼を閉じた。

江戸川乱歩傑作選 (新潮文庫)

「ユルス」時子はそれを「許す」と読み得た時、ハッとすべての事情がわかってしまったように思った。不具者は、動かぬからだを引きずって、机の上の鉛筆を口で探して、彼にしてはそれがどれほどの苦心であったか、わずか片仮名三文字の書き置きを残すことができたのである。


アンダー・ユア・ベッド (角川ホラー文庫)

ただ僕は、もう一度、ほんの一目だけでも、彼女を見てみたいと思った。そしてもう一度、幸せの感触を思い出したいと願った。


ナイフ投げ師

アルバートと妻のあいだで神秘的なリズムがうち震えるのが感じられた。ある種の軽さ、浮力、陽に照らされた揺らめくハーモニー。まるでどちらもその肌を脱ぎ捨てて空中で混じり合っているかのよう、光に溶けかけているかのように思えた。そうした空中での混じり合い、和やかな溶解を感じ、隠れた、けれど遠くの鐘が鳴る音のようにはっきりした調和を感じていると、ふと私は思いあたった。私に、私の暮らしに欠けているのは、まさにこうした調和なのだ。(「ある訪問」)


手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)

なんという無責任なまみなんだろう この世のすべてが愛しいなんて


結ぼれ

彼の感じ――ぼくがふしあわせで彼女がふしあわせなものだからぼくに自分はいけないやつだと感じさせることで彼女はぼくを威しているんだ
彼女の感じ――わたしのことを自分本位だと責めることであのひとったら、わたしが寄せている愛を叩き毀そうとしているのね でも困ってしまうわ わたしの愛するひとがふしあわせなのに ひとりでしあわせになっちゃうほど自己本位には、わたしはなれないんですもの


愛するということ

愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。


ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)

人間への愛よりなおいっそう高いものは、事業と目に見えぬ幻影とへの愛である。(略)君たちはおのれ自身に堪えることができない、またおのれ自身を十分に愛していない。それで君たちは隣人を愛へと誘い、誘いに乗った隣人のその過ちによっておのれを鍍金しようとするのだ。わたしが望みたいのは、君たちが、あらゆる種類の隣人たち、またその近所の者たちに堪えきれなくなることだ。そうすれば君たちは、自分自身の内部から、友とそのあふれる心情とを作り出さざるをえなくなるだろう。


子どものための哲学対話 (講談社文庫)

ぼく:愛するってどういうことかな。
ペネトレ:二つの種類の愛があるな。世界のはずれから世界の中心へ向かっていく愛と、世界の中心から世界のはずれへ向かっていく愛の二つだ。
(略)もし、きみが誰かに対して、そういう世界の中心がそこにあるって感じたなら、それは愛だよ。
(略)自分自身に、すこしでも世界の中心とつながっているっていう安心感があって、その安心感をすみっこにいるあの人にも分け与えてあげたいって感じたとすればね。それも愛だよ。


読む哲学事典 (講談社現代新書)

完全な相互理解という幻想は避けるべきであり、さもないととんでもない暴力に路を開くかもしれないということ、愛にあっては不毛な清教徒的純粋主義や完全主義こそ忌むべきものであり、いかなる「最終的解決」も求めるべきではなく、むしろ理解の不全と長い迂回こそが不可欠であるとともに、祝福されるべきものであるということ、果たされなかった愛の約束は、遠く時間を隔てて違う場所で果たされねばならないこと、つまり愛においてすべては身代わりとして果たされるほかなく、身代わりとして生き、身代わりとして死ぬことが、愛においては可能でもあり、必然でもあるということなどである。愛と暴力がひそかに底流においてつながっているのであるから、暴力に手を汚すことを恐れて(ひとを傷つけることを避けて)、純粋な愛を蒸留しようとしても、カスのようなものしか残らないのである。我々は愛の表現の中に適度に辛辣な攻撃性の薬味を加え、逆に暴力と復讐には、うまくウィットと許しを混ぜ合わせて、いつしかそれが本当の愛に変わるのを待つべきなのである。

ジェイルバード (ハヤカワ文庫 SF (630))

Love may fail, but courtesy will prevail.
愛は負けるが親切は勝つ

愛を考えるときあまり人間対人間、というのがピンと来なくて、人以外のものか純粋概念ばっかり思いつくのです。そういう意味で前者は乱歩やミルハウザーなどの、すこし偏屈な美学(乱歩は理想の側に転落する人々を多数描き、ミルハウザーの短編の多くもまた幼少期の理想に耽溺し、なぜかほとんど女性との恋愛が描かれない)に通じ、後者は哲学的なるものに通じるのではないでしょうか。前者についてはともかく、後者については少し言葉足らずかもしれない。

「愛」なるものは自分にしかわからない。自分の持つ愛が他人の言っている愛なのかはわからないし、目に見えない。かといって生き物を解剖すると死に、魂などどこにも見あたらなくなるのと同じで、愛は部分として見ることもできない。それでもやはり愛はあるのではないか(永井均さんは前掲書で「私」の哲学を踏まえて愛の話をしていると思われる)。

しかしそれをどうにかして捕まえることはできないだろうか……「愛とは愛ではないもの、それ以外である」という否定神学的な言葉は、YOU結局なにも言っていないにひとしいじゃないの! そんなセリフでドヤ顔されても! どこかに完全無欠の真理があるという思い込みを持っている狂信的な人間にはとうてい了解できないよ! 真理真理真理! あうあうあうあ! 飯島矢口星野天地! ド━(゚Д゚)━ン!!

純粋な理念としての愛を哲学として追求するのはいいけど、現実に適応させるのは難しくて(オウム的結果につながりやすい……)、田島正樹さんの文章が指摘しているのはその点です(ちなみに東浩紀×大澤真幸『自由を考える』でもこの「愛」問題にすこし言及がある。敷衍するとこれは架空の「キャラ」の魂(ゴースト?)がどこにあるのかという問題にも繋がっていて面白い)。

教徒的純粋主義や完全主義こそ忌むべきもの――だからといって、理想を極限まで突き詰めたニーチェのような珠玉の思想を切り捨ててしまうのは勿体ない。抽象思考をすすめていって一つの超越的ともいえる何かをあぶり出そうとする手法は、17~18世紀くらいの、神学哲学数学がかなり混じり合っていておもしろかった時代にいっぱいあって(スピノザの『エチカ』などはその最たるものだろう)、そういう徹底したものはとても魅力的です。あくまでも教祖などにはならぬ、孤立した人格とバランスの上でそれを成し遂げられるなら最良です(超困難だけどな……)。

まあ、実際にはなにかを愛していれば他のなにかはわりとどうでもよくなるのではないか。「そんなこといってもその愛している対象が失われたらどうするんだ!」
ノォォ━(゚∀゚)━( ゚∀)━( ゚)━( )━(゚ )━(д゚ )━(゚∀゚)━━ッ!!!!
YOU間違ってる。愛している対象は失われない。失われるものを愛しているならあなたは、本質を愛せていない(エルデシュは数学の不完全性が証明されても動じなかった)。愛する人のために他人を傷つける人もいますが、完全に真性包茎エゴですありがとうございます(患者は個人の人格的問題を外に投影していることが多い)。それに、愛したものを失っても「かつて愛していた」というのはなにも後ろ向きな思考ではない。誇らしいことなのだ(という電波をわたしはミルハウザーからいつも受け取っている)。なにかを愛し、自分を愛して愉快に浮き世を過ごしておれば、人に興味がないからこそ人に親切にできるものではなかろうか、そういった親切が愛にみえることもある。これを体現しているのがエルデシュや、ヴォネガットの作品なのです。

そして、手紙魔まみが「世界のすべてが愛しい」ことと責任をセットで考えることの裏には、愛には責任が生じるという倫理のありようが見え、そのブレーキこそが愛の皮をかぶったニセの愛――仮性包茎的なエゴのチンカスによって炎症を起こさせないためのものなのです。本気で愛そうとすれば、その裏で暴力を抑止するとてつもない責任が発生するということが仄めかされています。

さて、以上が先日の講座の雑感ですが、他にも紹介したかった本を挙げたいと思います。

こころ (集英社文庫)

愛と性欲が均衡をもって成立する瞬間がある、と先生は言うのだが、それが現世で可能ならば煩うことはなかったはずだ。最終的に暴力へと繋がっていく先生の愛は、残念ながら真性包茎のエゴだった……。しかし、最後まで愛の皮をかぶりつづけた姿は内部が腐っていていも、ハリボテでも、形をたもった愛に見える。純粋さを求めすぎても破滅し、俗にまみれすぎても苦悩する漱石のその思想は、

草枕 (新潮文庫)

で、一種の達観とともに描かれているような気がするのです。冒頭から炸裂する、漢文素養のある明治人特有の流暢な日本語の響きが美麗。マジ達観しすぎな究極の凡人。

『押し絵と旅する男』江戸川乱歩

理想を求めすぎ、完全に二次元好きすぎて二次元になっちゃった男の話です。マジ理想追求しすぎ。

恋愛中毒 (角川文庫)

こういった苦くも情熱的な狂気スレスレの恋愛が可能なのが人間です。
山本文緒さんは20代前半の頃に読んで以来ずっと好きなのだが、そう言うとみんな意外な顔をする……なぜだろう。いつだってわたしは二次元にとらわれすぎて三次元を揶揄するようなルサンチマンをアホらしいと言い続けているのですが……。


この作品は神学、数学、哲学を交錯させた思考実験に近いなにか。禁じられた姉と弟が地球で愛を試す。って……地球でも近親相姦は禁じられてんだけど……宇宙人、マジ宇宙人。

映画も紹介したかったのですが収集がつかなくなるので、断念しようと思ったけれどここは自分のサイトなので文句言われないし、書いておこう。
愛のむきだし [DVD]

紹介するまでもなく傑作なので、言われなくてもみんな見てると思います。見る上野クリニック。仮性包茎エゴ野郎はこれを見てむきだそう。

ブロークバック・マウンテン プレミアム・エディション [DVD]

こういう禁断の愛! みたいなのがせつない……マジせつない。最初のテントでの熱演がすごい……(わたしはヘテロです……たぶん)。

ゼア・ウィル・ビー・ブラッド [DVD]

おまえぜったい自己愛しかねえだろ! というような主人公に非常に共感します。なにをやっても結局は自分のことしか考えていません。この映画を見て思いだしたのは、
天才伝説 横山やすし (文春文庫)

やっさんでした。天才伝説、というタイトルはそのままの輝かしい意味ではなく「伝説」というものの虚構性を表現しているように思えます。
最後に、イ・チャンドン監督のこの二本、監督は元小説家で、いくつか日本でも作品を読めますが、

現代韓国短篇選〈下〉

個人的には映画のほうが好みです。

オアシス [DVD]

シークレット・サンシャイン [DVD]

オアシスを見て、ある友人を思い出した……本当にいる! こういうやついるんだよ! なんでわかったんだ! よくこんな複雑な人間が演じられるなおまえ! 外から見てまったく愛じゃないけど本人だけは愛だと思っているとても迷惑な人をここまでうまく映画にできるなんて(そしてそれが本当の愛になる瞬間があるということも描けるなんて)。ラストシーンの演出がすばらしい、幻想は消え、ゴミはゴミのまま、それでも美しい。
そして超傑作、シークレット・サンシャイン。神の愛は無限ゆえに残酷な暴力を孕む。そこにずっといるその人こそがシークレット・サンシャインだというのに、それが見えないからこそ愛なのか。エセ宗教家は「カルマを重くしないために」アレをするなコレをしろとか、さまざまなことを言いますが、そもそも宗教それ自体が「救われたい」「幸せになりたい」というニーズによって生まれたものゆえ、救われたいとか幸せになりたいなどと思わずにいる人には宗教すら必要ありません(ゆえに、覚者と大愚は見分けがつかない)。それでも信仰を強要するならば、それはただの俗なファシズムであるがゆえに信じるに価しない。誰もが救われないといけないなんて、ひどい話じゃないですか(どんどん話が横道に逸れてきました)。

なんだか一生ぶん「愛」って言った気がしますが、書いてる本人にも愛ってなんなのか、いよいよわからなくなってきているので愛さないでください。ではまたー。

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Posted in その他, 雑記.

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