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中上健次の向こうへ

今年も熊野大学が開催されます。
http://plaza.rakuten.co.jp/kumanodaigaku/
そんなわけで、過去に書いた中上健次についての原稿を再録しましょう。

▼ヤンキーレボリューション&オタクテロリズム2008 in my 俺

初めてアルバイトをしたのは中学生のときだった。
近所の植木屋の手伝いに志願し、夏の朝、トラックで海辺に運ばれ、日焼けか酒焼けかよくわからない色の顔をしている大人たちに混じって、ユンボが運んでくる土をシャベルで移動させ、炎天下の中、水の入ったポリタンクを何十回も運んで、海浜公園を作った。そのあと、高校を卒業して、いくつかアルバイトをかけもちしたが、ほとんどが肉体労働だった。別に志向がマッチョなわけではなく、80年代後半から90年代初頭は、田舎にはコンビニなんかほとんどない。仕事といえば選択の余地もなく肉体労働しかなかったのである。ドライブインのウェイターやパチンコ屋の仕事ができればいいほうで、ガソリンスタンド、工事現場のガードマン、配管の穴掘り、空調のない炎天下や、極寒の道ばたは、立っているだけで激しく消耗する。エアコンの効いた室内に座って仕事をする人間たちは、選ばれしエリートだ……そう感じていた。
環境が都市化されていくに従って、激しい肉体労働の需要は減少していく。それは釜が崎など、ドヤ街の状況を見ればあきらかだ。都市化される初期の建設現場において必要な労働力の供給先であるドヤ街は、いまやネットカフェによる全国のドヤ化と、ケータイによるフリーターの日雇い労働者化によって活気を失っている。
東京に来て驚いたのは、ここでは贅沢を言わなければ簡単に室内のルーティンワークが可能であるということだった。中上健次が東京に出てきて空港で荷物の積みおろし作業をしていたのは、環境による要請ではなく、マッチョな志向のせいだ。絶対(内実は過酷なのに、字面としてファンシーになってしまう「菓子パン工場」とかを選ばないところが……マッチョだ)。
中上健次の小説作法に関する講演をまとめた『現代小説の方法』において、中上は「小説を阻害するもの」について話している。
滞在先のペシャワールで、ガイドのアミンという青年が毎日、内戦に巻き込まれている父親の安否を確かめるために遠く離れたある場所まで行くという。これは単純に考えると電話一本で安否を確かめれば事足りる話であるが、それをしない。このアミンの行動に中上は現代において小説が孕む問題を見る。
簡単に説明すると「電話と車」というものがある現代においては「あ、オヤジどうなってんの?死んだ?」みたいな会話一行で終わったり、車で10分行って帰ってくるだけで「もいっかい寝るか」とか思って終わってしまうのだが、原始的な世界ではそうはいかない。行動を追うだけで文化的背景が見えたり、あるいはその路地が奇異なものであればあるほど文章にすればキラキラと輝き出す力を持っている。だがしかし、ニートやひきこもりがぎっしりつまった現代の物語空間にそのようなことは望めない。せいぜいコンビニで出た新しいジュースとか、カップ麺を描写したり、復刻版ビックリマンシールのスーパーゼウス様を描写するしかことでしかキラキラさせる方法はない。現代ではかように物語が産まれづらい。と、まあ非常に無茶苦茶だが要約すると中上の意見はそういうことだ(超訳してるから原文を読め)。
フランスでもてはやされていた詩人ランボーがアラブに行って感動したのは、アラブのような猥雑でプリミティヴな場所ではすべてが輝いていて、もはやいちいち修辞的にああだこうだいうのはつまらんと思ったのではないかと、そういうランボーに中上は感情移入するのだが、これはありがちなヨーロッパのオリエンタリズムへの眼差し――言い換えれば、都市生活者が田舎に憧れるみたいなものとあまり変わらない。
世の中が都市化=近代化、されていくに従って生活からどんどん身体性が剥奪されていく。初期中上健次の行動はそれに抗うかの如く、自ら身体性を獲得する方向へと動く、そして結果、ルーツである熊野を舞台にした路地へとたどり着いた。路地とは近代化から取り残された、いまだ身体性が残る場所のことでもある――と、いうふうに書くとなんだかそれだけで「マッチョで原始的な小説家――ケンジ・ナカガミ」みたいな紋切り型が通用しそうだが、そうはいかないのが中上のめんどくさいところで、講演が行われた同年に中上は『日輪の翼』を書いている。『日輪の翼』は、路地を追われた婆さんたちがトレーラーで旅に出る、という気が触れたような筋で、先に説明した、自分が「小説を細らせる」とした現代人の必需品「車」をメインに据えた初期の作品。さらに後期の作品『賛歌』とかになると、もうすごい。カタカナ文字が乱舞し、主人公が性のサイボーグという……なんだか、もう、どうせだったら左腕、サイコガンにしろよ、みたいな話になっている(SFではないが)。
この一見矛盾とも思える、発言と作品の乖離はどういうことか。
これは都市への敗北ではないかとも思えるのだが、反骨精神旺盛な中上のこと、そんなわけがない。サブカルチャーや近代的アイテム――都市的なるものを敢えて取り入れることによってそれを超えようとしたという見方が妥当だろう。これはヤンキー的な「あらゆるものが気に入らねえ!ぶっ壊してやる!」というノーフューチャー精神としてヘッドバンキングで賛同したいところだが、悲しいことに、後期の仕事を見ると、志半ばで倒れた感が否めない。
しかし失敗=無意味、という安易な虚無感に足を掬われてはならない。
中上がやりたかったことというのは、オタク+ヤンキー=サブカルチャーとリアリズムを接合する、のではなくて、あらゆるものすべてを物語という混沌の中に閉じこめることだったのである。彼にとっての物語というのは、リアリズムとかフィクションという概念を超えた、もっと強力なものだ。反物語を語ることによってロマンティシズムに陥った結果、反物語という物語に荷担してしまうとか、そういったメタ的な恐ろしさを持った物語こそが中上が物語と呼んだものである。
たとえば身近なものでは歴史がそれに近い。
歴史に正しさも間違いもない、ただ力の強い物語が勝った結果が歴史なのだ。事実はその裏付けとして存在する。決して、事実があったからそれが史実になるとは限らない。歴史を成立させるために、事実というひとつの要素があるにすぎない。生まれたときから歴史の上に配置されている我々は、物語から逃れられない。中上はその大きな物語=歴史=リアルに対抗するための、より大きな物語=小説=フィクションを志向したのではないか。それは近代化した人間を物語の中の住人へと引き戻す、ある意味壮大な物語治療だった。そこは自らの出自からも自由になれる場所だ。老婆もトレーラーもサイボーグも天皇も宇宙人も外人も部落も同じになる同一平面、そのような危険な場所こそが中上の求めた物語だ。
しかし、何度も言うがそれは失敗に終わった。
サブカルチャーを摂取して育ってきた現代の若手作家たち(in my self)はその失敗のあとに生きている。
我々が後期中上の敗北から知ることができるのは、世界から路地というものがなくなった結果、すべてが都市小説になっていくという事実である。脱身体化(楽して生きたい)の欲望には勝てない。そして、都市化の果てにあるのは人の消失だ。そういう意味では「構造だけの小説」や「おもしろいだけの小説」を紡ぐ作家たちのほうが、一番遠そうに見えて実は中上以後を忠実に生きている。
しかし、それでいいのか?
中上が生きていたら間違いなくこう叫ぶだろう「ノーフューチャーァァ!!!」
そう、確かにそれでは無未来。No future。それではだめなのだ。ラノベもエロゲも面白いけれどもっと面白くなるはずなのだ。敢えて言おう。中上の描いた未来の絵図だとか、よくわからない解説だとか、この文章だとか、マッピングの中に収めてしまえるようなことは一切合切含めてくだらぬ。今すぐ唾棄してガソリンをぶっかけて燃やしてしまえ。作家など喰い殺してしまう獰猛な物語こそを、中上は求めていたのだ。世界都市(エクメノポリス)と路地裏(バックストリート)、拮抗するその狭間から「エクストリーム」が炸裂し、激情が軋む音と共に、詩が叫び出す。秩序などという小賢しいたわごとを完膚無きまでに破壊し、現実を混沌と混乱に陥れる猛毒こそが物語ソウル。
我々は、オタクだとかヤンキーだとか黒人だとか宇宙人だとかを超えて、中上が失敗しても俺達は失敗しないという無根拠な革命精神だけは捨ててはならない。イエス・フューチャー。我らが取るべき手段は、もはやベッドの上からの革命か、路上からの革命しかあるまい。このアフター中上の時代、都市と路地というキーワードから文化をこう大別してみよう。
・路地 ヤンキー・アウトロー文化(不良)「俺が動けば道ができる派」大人。身体と体験、他者。外向的能力。
・都市 オタク・ニートロー文化(秀才)「働いたら負けだと思っている派」子供。知識と技術、自己。内向的な能力。
得手不得手があるだけで両者に優劣はない。
中上が語った近代化における文学成立の難しさ――「うごかねえからドラマおきねえ」(スマン、田山花袋)にあてはめると、確実に今はオタク・ニートローの時代だが、中上の心配とはよそに、そこでは近代化しても物語が成立している。ヤンキーでありながらオタク文化を取り入れようとした中上は、さすがにチャレンジャーだ。が、しかし、小説を書くという時点で似非ヤンキーだった。中上はヤンキー的だが、そのヤンキー臭さは文体から来るものであって、物語る力はヤンキー的なものではない。中上の文体をして「筋肉で書いたような」という印象を受けることがあるが、それをもってしてヤンキー的というには早計すぎる。ヤンキー的な文章には身体感覚のような修辞はない、そこにはただのリアリティしかない。だからこそ、それを突き詰めたヤンキー文化であるケータイ小説が神話的なのだ。徹底的に肉体で書くということを突き詰めると、過剰な修飾やらが欠落して、神話的になっていくのだ。文体が無意味になるほどの体験こそ、身体をもってして書くことの究極であろう。本物のアウトローは文盲でなくてはならないし、だいたい文字を書くなどという面倒くさいことはやらないのだ。つまり、文壇とか小説の世界の「無頼」とか「アウトロー」というのはオールフェイク、全無しである。
小説を書くヤンキー=フェイク!(ポエムはOKだ)。だが、ところがここのところケイタイの登場によってその構図が崩れかけている。
ちょっと検索してみれば、リアルタイムで裏社会の底辺で働く人たちが、匿名でケータイ小説や日記を書いていているし、その内容はつたないものだとしても、あまり読んだことがない種類のものである。それこそ現代の路地裏感、ストリートの息吹を感じさせる。さらに不良文化とHIPHOP文化の近接によって、リリックで心情を綴る、という表現方法も確立されている。鉛筆で書くのは難しくとも、ケータイの予測変換によって事実と心情だけを紡ぐならそう難しいことではなくなっている。修辞抜きの事実だけで強度のある物語は、原型的物語(民話とか神話)に近くなっていく。神話化していくということは、とりもなおさず中上の希求した剥き出しの物語の根源に近づいているということである。
これから先、携帯というデバイスの普及によって、中上が体現できなかった新たな物語が産まれるかも知れない。それの読者と書き手は、いままで文学に興味がなかった層の人々であり、そこにおいてオタクとヤンキー、そしてすべての人類が共存する文学の可能性が開かれる。どんな人でも、一作は必ず小説を書くことができる。それは「自分の人生」である――携帯小説というのはその「一生に一回」の小説を、いつどんな書き方で書いてもいいんだという、新しい私小説運動という側面がある。だが、一生に一回やれたなら何度でもやれるはずだ。誰でもいい。動機など不要。そのケータイで今すぐ小説を書くのだ。
革命はそこから起こせ。


初出:ユリイカ

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