Skip to content


書評『星座からみた地球』


いきなり登場人物の名前が「A」なのである。
次に現れるのは「B」で、こうなってくると、もちろん「C」が登場し、最後は「D」というわけだ。こうして物語は始まる。と言いたいところだが、始まりはしない。かといって終わるわけでもない。このような曖昧で抽象的な言葉は、書評としてはいかがなものかと思ってはみるものの、ほかに説明のしようがない。あらゆる小説がそうであるように、とにかく先を知るには文章を読み進めていくしかないわけで、当然読み進める。しかしこの作品に限っては、読めば読むほど登場人物への理解が深まるどころか、謎のほうが深まっていく。
どこかとぼけた語り口は、右に顕微鏡、左に望遠鏡のついた眼鏡をかけて物事を見るように、三人称と一人称をふらふらと往来し、AやBやCやDが少年なのか少女なのかは途中までわからず、何歳なのかもわからない。それが読みとれるような文章が出てきたかと思えばすぐに場面転換。過去なのか未来なのか定かではない場所に飛び、彼らの個性は逃げ水のように消えてしまう。記号的な個性で思い出される作品といえば、ブルー、ホワイト、ブラック、ブラウンの登場人物紹介から始まるポール・オースターの『幽霊たち』だが、そこでは名前に付随する個性が、まだかろうじて残されていた。しかし本作で使われているABCDという記号は、純粋な関数としての記号だ。要するに、ABCDはべつにだれだっていいのである。
幽霊のような抽象的な名前、小さな差異と大きな差異、子供のあたまのなかのような、無邪気な世界にひたるうちに、細かいことなど忘れ、気づくと、語り手と語られている人物はおろか、読み手のこちらまで、抽象的な記号に閉じこめられてしまう。そのなかで思い出すのは、友達が帰り、だれもいなくなった静かな部屋にひとりたたずむ、誰しもが子供時代に味わったことのある、あの、懐かしくもせつない感覚。そして、伝わってくるのは、言葉にできないものを言葉にしようとする、作者自身のもどかしさだ。
小説は自由だが、それゆえに不自由だ。なにを書いても良いが、すべての形が書き尽くされている。どんな前衛的なものだろうと、なにかに似たものでしかありえない。小説にはきまった形があるわけではないし、どのように書こうが小説だといえば小説になりうる。自由の不自由。それは現代の作家にとっては自明なことであり、むしろそこからどう小説を始めるかのほうが問題なのだ。けれどこの作品では、作家自身がその自明さを疑い、別のスタート地点を発見しようとしている。無謀だろうか。だが、この小説は、名前という、意味を失った登場人物たちの悲しみではなく、その先の可能性にたどりつく。
名もない星たちを線で結んで名付けるように、文字をなぞり、最後の一行を読んだあなたは、誰でもないはずの彼らの名前をみつけるだろう。

   


初出:文藝

初出:『文藝』 2010年秋季号


(このエントリは、福永さんの新刊『一一一一一(イチイチイチイチイチ)』を応援して11月11日11時11分に投稿されました)

[`evernote` not found]

Posted in 売文保存庫, 書評.

Tagged with , , , .