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涼宮ハルヒの声

文化系トークラジオLife、2016年10月放送分のテーマは2.5次元。ということなのですが、予告編をきいて、過去に書いたこの原稿のことをちょっと思い出したので考えるきっかけとして掲載しておく。
いやしかし五年前の原稿にもかかわらず、えらい風景が変わったなあ……あのころってVRやらAIやらほとんど話題になってなかったもんねえ。


涼宮ハルヒの声

架空のキャラと人間の命はどちらが重いのだろう。
そのような問いは立てるまでもないことなのだろうか。そんなことを正気で聞くぼくは変なんだろうか。

2011年5月31日。ある声優に2ちゃんねるで殺人予告をした男が札幌で逮捕された。
犯人はツイッターのアカウントを所有していて、ニュースを知ったぼくは興味半分にそれを見た。定型文の続くタイムライン。埋め尽くされた殺人予告と鉄道ネタ。遡ってみると、偶然かもしれないけれど、彼の危険なツイートはちょうど震災を境にして発生していた。そのツイートには、奇妙なことに生々しい感情がなかった。まるでプログラムのように無機質な宣言文。botの吐き出している定型文ではないかと思ってアカウントを見ると、彼自身の、そのままの本名で運営されていた。名前を隠さないという無防備さから、彼の現実に対するアンバランスさが感じられ、奇妙に現実が歪んだ気がした。

ぼくは10代のころ、ある声優のファンだった経験がある。好きだったあるマンガがアニメ化されると聞いてワクワクし、ビデオに録画してそれを見た瞬間、その声が、あまりにキャラクターのイメージのまんまだったことに胸が高鳴った。そして、ぼくはその声優に一瞬で恋をしていた。いま考えると、その声優は決して整ったルックスだったわけじゃない。一体どこが好きだったのかわからない。ぼくは架空のキャラクターのかけらをその声優のなかに見ていたのだろう。
架空のキャラクターに声が吹き込まれるとき、あたかも命を持ったなにかのような、ひとつのリアリティが立ち上がってくる。それはそのキャラクターが固有の存在であるという証の魂(ゴースト)だ。いもしない架空の人物だというのに、絵や声や性格を通して、ぼくらにはなぜかそれが「そのキャラだ」ということが直観的にわかってしまう。ひとりのキャラにひとつの声が割り振られたときに立ち上がる強固なキャラ性。そのとき、声とキャラクターは不可分に結びつく。このとき、声優はキャラに肉体を縛られた存在となってしまうのかもしれない

 殺人予告をした犯人はハルヒの声をあてた声優、平野綾のファンだった。言うまでもないが、平野綾はハルヒ放映後に人気声優となって活動の幅を広げていた。ゴールデンタイムのバラエティ番組でみかけることも多くなり、そのなかで必然的に現実に生きている人間としての一面も見せるようになっていた。少数のファンがそれに戸惑っていたのはぼくも知っていた。あくまで想像だけれど、そのことが事件に関係があったのかもしれない。もしそうだとしても、自分の中でつくりあげたイメージを他人に押しつけてしまうのは一種の暴力だ。擁護するのは難しい。ぼくが気になったのは、ハルヒというキャラに声優を同一視させてしまうほどの力があったということなのか。それとも平野綾の声にハルヒを「キャラ」として立ち上げる力があったのだろうか、ということだ。声は身体だろうか。それとも身体とは別なのだろうか?
かつて、声はまぎれもなく身体から発するものであった。ならばヴォーカロイドは何と呼べば良いのだろう。一般的に、身体は現実に対する楔のように考えられているけれど、虚構の世界に耽溺している人間の身体感覚は限りなく薄い。ぼくらは虚構と現実のはざまに住んでいる。ちゃんと地に足つけて論理的に考えてみれば、ここが現実か虚構かなど判別がつくわけがない(決して天の邪鬼な発言ではない)。でもこんなのは千年前からみんなが考えていた時代遅れのグノーシス主義だ。グノーシス主義とはおおざっぱにいうとこういう考え方だ。

「この世界はひどいクソゲーで、本当の世界のぼくはいまごろヘッドセットつけて二階の部屋のなかで寝転がってニヤニヤしながらこのクソゲーをネタ半分に楽しんでおり、そんなぼくの隣の部屋では中学校に入ったばかりの妹(大人気アイドル)が仕事から帰ってきてエロゲをやっていて、一階ではどうみても18くらいにしかみえない巨乳の母親(血が繋がっていない)が晩ご飯を作っている。そろそろ隣の家の幼馴染み(ロシア帰り、元スペツナズのクールな殺し屋)がぼくを起こしに来てくれるはずだ。そう、本当の世界のぼくはとても幸せなのだ。しかしこのクソゲー、マジ終わる気配ない。クソゲーさんマジクソゲー」

映画マトリクスなんかでおなじみの世界観だけれど、グノーシス主義は、キリスト教発生と同じくらいの時期に存在したと言われる古代の宗教・思想の一つだ。グノーシス主義では我々の住むこの宇宙は邪悪な神の作った世界で真の神についての認識に到達することでこの宇宙から脱出可能だと説く。この退屈な世界は実は嘘で、本当はどこかでもっとトンデモなことが起きているはずである……という「消失」バージョンのハルヒの思考とどこか似ていないだろうか(消失でサティの「グノシエンヌ」が流れるのは偶然ではない)。古来からこうしたグノーシス的な物語というのは枚挙にいとまがない。そして、こうしたグノーシス的な世界への確信を深めることによって、虚構と現実の壁はいともたやすく崩れ去ってしまう。先の犯人の固有名への無頓着さ――自分をまるでキャラであるかのように、現実へと乱暴に放り出せてしまうことにそうしたグノーシス的な感覚を見ることは難しくない。

ぼくらは、いま、悪夢のような反宇宙にいるのだろうか。だとしてもきっとそれはぼくらには一生わからない。たとえグノーシス的な世界だとしても、ここ以外のどこかへ行けないぼくらはここで倫理を追究しなくてはならない。でも、その倫理をつきつめてストイックに生きることはニーチェの「超人」くらい困難だ。「超人」とは、人間を越えて「キャラ」になることへの欲求だ。だからこそぼくらはまるで「キャラ」のように振る舞う芸能人にあこがれる。だからと言ってコトはそう簡単ではない。小倉優子の「キャラがぶれているキャラ」というアクロバティックな論理。宇多田ヒカルの「人間活動」発言(いままで何者だったと!?)…これらから読みとれるのは肉体を持ちながらキャラでしかいられないことへのねじれた苦しみだ。
キャラとはひとつの呪いであるかもしれない。けれどそれを祝福に変えることもまた可能なはずである。
声優とは、キャラでありながら、ひとりの人間であるという、ふたつの矛盾した現実を同時に生きることが可能な存在であるとぼくは信じている。人でありながらキャラでもある、そんなふうに少し強くなったハルヒの声を聞くことをぼくは願ってやまない。

 

初出(ユリイカ2011年7月臨時増刊号 総特集=涼宮ハルヒのユリイカ! The girl greatly enlivens the criticism! 2011/6/14)

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Posted in ユリイカ, 売文保存庫.

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