「健康」タグアーカイブ

左の眼球譚

台所で思いきり鼻をかんだら、左目が飛び出した。
びっくりしながら蹲って目玉を押し込んでいると、背後から、なにしてるんですかめろんさん、と同居人男子の声がしたので私は思わず、イ、インターネットッ! と口走った。病院を調べてくれ(君のインターネットで)という意味であるが、真意が伝わるまでに約五分を要した。
すぐに近くの大学病院に自転車を走らせ、診察を受けた結果は「眼底骨折」。そういえば昼間、ジムでスパーリングをした際に強烈な右のカウンターを喰らった覚えがある。医師によると、鼻をかんだときに、折れた眼底から空気が入るのは良くあることらしく、見え方に問題なければ、感染予防の薬を飲んで安静に……と、会話の途中でとつぜん口を止めた。訝りながら、どうかしましたか? とたずねると、医師は私の眼を看ながら、眉をひそめ、ああ……あなた緑内障もアルね、と怪しい中国人みたいな口調で云った。
骨折よりも緑内障のほうが深刻なので、早期発見は怪我の功名であると告げられたが、私は釈然としない気分であった。数年前、一本歯の高下駄を履いて歩くだけで、古武術的な身のこなしができるようになる、と甲野善紀の本に書かれていたのを読んだ私は、さっそく一本高下駄で近所を徘徊しはじめたが、慣れてきた頃、車に跳ねられた。
事情聴取で保険会社の方に、そのときあなたは古武術的な身のこなしで避けることはできなかったのか? と追及されたが、古武術が編み出された時期に自動車はありませんでしたと反論。
この事故で私は半年は楽に生活できるくらいの保険金を手に入れ、しばらく自宅で楽しく暮らした。それに比べると今回の「怪我の功名」は、功名度が低いと云わざるを得ず、どちらかというと弱り目に祟り目という言葉のほうが似合っている。まあ、なんにせよ患ったものは仕方ない。二つのうちの一つなのだし、大したことではない。
無精な私はその後、病院へ行くのを億劫がって、検診を無視してしばらく眼帯をつけたまま家で寝て暮らしたが、片目なので何をしてもすぐに疲れる。仕事も手につかないが、読書くらいは楽しみたい。なにか片目で読むのに適した本はないかと頭をひねっていると、北條民雄の短篇に「眼帯記」という題名のものがあったことを思い出した。残念ながら題名だけで、中身を知らない。ちょうどよい機会なのでどんな話だか読んでみようと、夜の図書館にでかけ、眼帯のままそれを読みはじめたのだが……読み進むにつれて背中に嫌な汗がにじむのを感じた。
眼帯記」は昭和初期の文学界に発表された、いわゆるサナトリウム文学と呼ばれる類の小説である。抑制された絶望と淡々とした希望の描写、行間から漂うクレゾールのにおい……北條は二〇歳のときハンセン病を発症、二四歳で病死している。筋金入りである。流石に冗談を云う余地も見あたらない。話は、いきなりベッドの上から始まるので一瞬わけがわからないが、良く読むと“部屋の者はみな起き上がっていたが”などと書いてあり、要するに最初から病院の大部屋にいる病人が、さらに病気になるという底なしにデフレスパイラルな話なのだ。
ある朝、眼に痛みを覚えた主人公は医局の眼科に行って眼帯をもらい、眼帯をした彼は、それを病院の友人みんなに見せびらかし、悲観しているふうを大げさに装ったり、強がったりする。このあたりはまだ少し明るい。主人公の病状はまだそれほど悪化していないので、おどけてみせるくらいの余力がある。このまま逞しく生きてくれれば良いものの、後半で眼病の少女がじっと耐え、眼をガーゼで温めているのを目撃“これが徒労であるなら、過去幾千年の人類の努力はすべて徒労ではなかったか!”と、慟哭。最後は自分よりも眼が悪いTという男に「今のうちに書きたいことは書いとけよ」と云われ、自らもまた迫り来る死の病から逃れられぬこと痛感して凹む……。
読んでいるあいだは、眼病が悪化するような気分だったが、読了後は不思議と落ち着いた気分になった。真っ直ぐに救いを求める北條の姿勢は、抜き身で苦悩と切り結ぶような覚悟と凄みがある。読みながら私が思い出したのは、夜と霧 で有名なV・E・フランクルの言葉だった。ナチスの強制収容所を生き抜いた彼は、どのような状況にあっても人は生きることに意味を見いだせる、と説いたが、同じく、極限状態を生きた北條も、その境地にたどり着いている。フランクルは収容所の人間たちを剥き出しの「裸の人間」と呼び、北條は処女作『いのちの初夜』において、病で人の形を失いつつある病人たちを、人間ではなく、ただの「生命」と呼んだが、それらは決して否定的な意味ではない。二人が目指したのは、それを肯定したうえで「新しい人間」になることだった。しかし北條は、恐らくそれに挫折した。救われてしまえば言葉は無用、北條は最後まで業を背負って言葉を紡ぎ続けた。その姿は「新しい人間」などではなく、業から逃れられぬ「悲しい人間」である。だが、私はそれが羨ましい。
気づくと、図書館からは誰もいなくなっていた。私は手洗いに立ち、鏡の前で眼帯を外して眼を見た。
腫れは引いて、もう治りかけていた。

文學界
初出:文學界

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レーシックの経過

2010年10月21日(木)、レーシックを受けてから半年以上が経過しました。
三ヶ月検診までのまとめでは、

レーシックを受けてから三ヶ月経過したのだが、経過は良好。結果的にはいい感じになった。

と、書きましたが、この二ヵ月、突然ドライアイがひどくなっているような……。
これまでは朝起きても特に何の問題もなし。むしろ寝る前のほうが目が疲れていて、寝ると回復していた。しかしこの二ヵ月というもの、起きた瞬間にドライアイがピークに達しており、目のあたりの筋肉が凝り固まっているという状態。
果たしてこれがレーシックのせいなのかはわからないのですが、 他に原因がないので検査中。ストレス性の場合もあるので、もしかしたらそれかも知れませんが……。
とりあえずレーシックをやりたいと思っている人がたまにこのページを見ているようなので、念のために報告まで。

ちなみに絶対にリスクを犯したくないけどやってみたい……でも恐い……どうしよう……と思っている人は、これなどを読むと、きっと心が折れると思います(笑)

こういうのは危険だと思えばいくらでも危険なケースが出てくるし、安全だと思えば安全な情報も出てくるので、結局のところリスク計算が難しい問題です。私の場合は視力が0.01で、コンタクトが体質に合わず、疲れ目が酷かったゆえに手術したので、今のところは受け入れられる範囲かと。
さすがに……目をあけていられないほどひどくなったらまた違う のかもしれませんが。検査中なので経過を見ようと思います。なんにせよまあ、失明してもそれはそれでそういうふうに生きていけば良いわけですが。

ちなみにレーシックをすると眼圧測定がちょっと難しくなるようです。正常な値が出ないとか。

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ビブラムファイブフィンガーズ

vibram
▲ビブラムファイブフィンガーズ

前回紹介した『BORN TO RUN』ですが、書物自体はすでに一年経っていているにも関わらず反響が多く非常に驚きました。身体という万人に共通したインフラのようなものには皆様興味がございますようで、やはり経験主義者のわたくしとしては、ここは皆様に代わってさらなる実験を進めなくてはなりません。
ということで、裸足に近いランニングが可能になるというアイテム「ビブラムファイブフィンガーズ」を購入いたしました。

[blackbirdpie url=”http://twitter.com/#!/uminekozawa/status/88525742593421312″]

上野のアートスポーツに行って試着。だいたい足のサイズは26くらいなのですが、そのサイズだとレディースのほうがぴったりくるようで、KOMODO SPORTというモデルのレディースサイズ39を購入。

[blackbirdpie url=”http://twitter.com/#!/uminekozawa/status/88552496599007232″]

そんなわけでしばらく使ってみようと思います。

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RUN

昨年、iPhoneを買ってからというもの、やたらと外を走るようになった。

というのも、このアプリのせい。

RunKeeper(Zooではない)。
無料
カテゴリ: ヘルスケア/フィットネス
サイズ : 9.1 MB
条件: iPhone、iPod touch および iPad 互換 iOS 3.0 以降が必要

GPSで走った距離、時間、ルートが記録される。

今ではそう珍しくないアプリだが、他のものよりシンプル。webサイトにログが記録されるのと、facebookとtwitterにポストできるもいい。
iPhoneで一番使っているソフトかも知れない……。
ちなみに去年からの記録(http://runkeeper.com/user/uminekozawa)を見ると、最初は3キロ程度走るくらいだったのが、今年に入ってから一回に走る距離が10㎞とかになっている。

ランニングは良い。何が良いかというと、買ったのはいいけれどぜんぜん聞いていないアーティストのアルバムを聞く時間になる。あと、ポッドキャストとかめっちゃ量が多いヤツを聞く時間になる(例えばこれとかオススメ)。

朗読で親しむ 日本名作文学全集 第2巻
無料
カテゴリ: 文学
言語: 日本語

文筆業者が「走る」といえば、真っ先に思い出すのは村上春樹。

「語るときに語ること」という言葉の入れ子感がマラソンするときの両足の反復運動のよう。
軽く読めるエッセイなので、ジョガーは読むといいかもしれない。しかしこの、エッセイと小説の差異のなさはどういうこと? 村上春樹という人は普段どういう話し方をするんだろう……というのは、ワタクシ、つねづね文体というのは実はけっこうフィジカルなものではないかと思っているからです。文章は観念的で論理的だといいますが、それを紡ぎ出すのはキーボードを叩く指だったり、ペンを持つ手だったり、どうしたって身体です。BMIなんかで脳波執筆が実現したとしてもそれを出すのはやっぱり脳なわけで、どこまでいっても物質的な部分を排除することはできない。かといってすべてを物質に還元することもできない。物質的なものとそうでないもので、両方から挟み撃ちするように心とか意識を考えていると、無理数の追いつめ方を思い出して無限ループ。

で、まあそんなこんなでだらだらと走っていたわけだが。実は、この本の影響もちょっとあるかもしれない。

BORN TO RUN 走るために生まれた~ウルトラランナーVS人類最強の”走る民族”

水道橋博士が去年、ブログで猛プッシュしてネットで話題になったので記憶に残ってる人も多いだろう。
紹介文を読むだけでもワクワクしてくる。

この冒険は、たったひとつの疑問からはじまった。「どうして私の足は走ると痛むのか?」その答えを探すなかでクリストファー・マクドゥーガルは世界でもっとも偉大な長距離ランナー、タラウマラ族に行きつく。
その過程でわかったこと―わたしたちがランニングについて知っていることはどれもすべてまちがいだ―メキシコの秘境を彷徨う謎の白馬、現代社会と隔絶して暮らす“走る民族”、素足で峡谷を走り抜けるベアフット・ランナー、数時間走り続けて獲物を狩る現代のランニングマン、過酷な地形を24時間走り続けるウルトラランナーたち、そして、世界が見逃した史上最高のウルトラレース…全米20万人の走りを変えた、ニューヨークタイムズ・ベストセラー。

痛ましい真実その1 最高のシューズは最悪である最高級のシューズを履くランナーは安価なシューズのランナーよりもけがをする確率が123%も大きい。
痛ましい真実その2 足はこき使われるのが好き履き古されたシューズのほうが、新品よりも足への衝撃が少ない。
最後の痛ましい真実 アラン、ウェッブでさえ、「人間は靴無しで走れるようにできている」と言う「シューズを履くのは、足にギプスをはめるようなものだ」

「常識的だとされていた○○は間違いだった!」というのはセンセーショナルでアヤシゲなのだが、やっぱりワクワクするよなー。
で、読んでみたらいきなし「タラウマラ」という単語が出てきて驚いた。
タラウマラといえばアントナン・アルトーがいろいろ書いてるので有名なフシギ民族ではないか。なぜ今……。

[youtube]http://www.youtube.com/watch?v=FnwIKZhrdt4[/youtube]

[youtube]http://www.youtube.com/watch?v=tkST74rqyWA[/youtube]

 

タラウマラについての文章はこの本で読める。

 


アルトー後期集成 1

最初のページを引用してみよう。

すでに述べたように、数日前〈万物の導師〉が、トゥトゥグリの道を私に開いてくれたのであるが、シグリの道を私に開いてくれたのはトゥトゥグリの司祭たちなのである。〈万物の導師〉とは、人間の間の概念的関係をつかさどる人であり、その関係とは、たとえば友情、憐れみ、供物、貞淑、信心、寛容、仕事などである。彼の力は、ここヨーロッパでわれわれが形而上あるいは神学を通じて理解しているものを前にしては効力を失う。しかし彼〈万物の導師〉は、内的意識の領域においてはヨーロッパのどんな政治的指導者よりもずっと遠くまで行くのだ。

タラウマラ族におけるペヨトルの儀式

皆様、おわかりでしょうか。
ワタクシにはさっぱりわかりません。
トゥトゥグリについて書かれた文章はこうです。

太陽の外的栄光にささげられるトゥトゥグリは暗黒の儀式である。
暗黒の夜の、そして太陽の永遠の死の儀式である。
否、太陽はもはや回帰しないであろう
そしてこの天体を横切るはずの円環の六つの十字架は、
実はその軌道を遮断するためにある。

トゥトゥグリ

(注:TYPE MO●Nのゲーム内テキストではありません)とにかくただごとではない荘厳な、宗教的ななにかはビンビン伝わってくるドライヴ感あふれる文章です。
アルトーは1935年にメキシコのタラウマラ族の元を訪れた。彼はもともと統合失調気味で、それゆえにいろいろな原始的な、ある種の霊性のようなものに近づけたようだが、そこにはやはりキリスト教への複雑な闘争が色濃く影を落としている。ゆえに体験(ある種のトリップ)もまたそれへのカウンターに満ちあふれているわけだが。実際のところタラウマラとキリスト教との関係ってどうなのよ? と言われるとよくわからない。アルトーの思い込みが激しすぎるのかもしれないし、そうじゃないのかも知れない(死ぬまでに一度現地に行ってみたいものです)。ともかく、『Born to RUN』を読む限り、タラウマラの生活様式はアルトーの頃から70年経ってもあまり変わっていないようだった(400年変わってないとかいう話もある)ちなみにタラウマラとララムリという名前が出てきて別の民族なのかと混乱する人もいるようだが、タラウマラはtara(足の裏)、uma(走る)を意味し、17世紀にイエズス会によってつけられた名称。ララムリはそれ以前の彼らが自分でつけた名称で、raramuri(人間)という意味。

『Born to RUN』、最初は読みづらかったけど後半非常にスリリング。
特に人間は走るために進化した! という部分は『天才と分裂症の進化論』を思い出させた。

天才と分裂病の進化論

歴史のある部分で分裂症の果たした役割についてと、それが人間の進化を牽引したという仮説……このへんはジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』みたいに証明できないけれど仮説として魅力的。さきほど、アルトーが「それゆえにある種の霊性に近づけた」と書いたが、これを読んでもらえれば「それ」の意味がわかってもらえるかと。さらに、


神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡

とあわせて読むとますます人類の神秘に思いを馳せたくなる。
『神々の沈黙』で提示されている仮説は大胆で、「人は古来、神の声が聞こえていたんだよ!」というもの。これはつまり、ぶっちゃけみんな分裂症気味だったかもしれないってことです。ギリシャの時代にはかなりその能力が衰退していたけど、それでもまだみんなには内言(言葉で考えること)をしていなかったのでかなり能力が残っていたと。それが原始的な脳のありかた「二分心」というものに関わってくる。このへんは松岡正剛が紹介しているので、そっちにまかせる(オレが読むような本など松岡さんがだいたい紹介しているんだが)。
この本の翻訳者、柴田裕之(しばた やすし)さんの翻訳する本はやたら面白いものばっかりで、特に、

ユーザーイリュージョン―意識という幻想

が良い。意識などない! という話ですが、そういうのは東洋ではずっと前から言われていることなので、われわれにはわりと受け入れやすいだろう。
ちなみに意識へのアプローチとして仏教的なのは、この前野博士の一連の本で語られる「受動意識仮説」。


錯覚する脳―「おいしい」も「痛い」も幻想だった

とくにこの本はアイソレーションタンクについて興味を持ち、ゼミの学生をつれて実際に体験された話など、あくまで体験しつつ理性的に考える柔軟性が光ります。

そうそう、『Born to RUN』はツイッターのアカウントもあって、こちらも充実しているのですが、

このアカウントを見ている人のなかで、やはり天才と分裂症の進化論を思い出した人もいたようです。

ここで紹介されていた本『脳を鍛えるには運動しかない!』も読みました。

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[blackbirdpie url=”http://twitter.com/#!/BornToRun_jp/status/50064814189457408″]


脳を鍛えるには運動しかない!―最新科学でわかった脳細胞の増やし方

冒頭で書いたように、ワタクシ、文体と身体がなんとなく繋がっているような気がしており、つまり創作のために走っているわけですが、確かにメンタル面は安定します。
でもメンタル面含めて、パラメーター上昇度ならボクシングのほうが明らかに上なので(マジ過酷)、まあ……生活リズムを整えるという感じで、そんなに劇的には変わった感じはしない(ヘミングウェイとかトム・ジョーンズになりたいならボクシング一択です)。
あとは瞑想もけっこういいです(最近、寝る前に激しく幻覚めいたイメージストリームが出まくるので、まず瞑想で全部リセットしてからでないと強烈な悪夢で死にそうになります)。
考えてみるとただ無心で走ることは、ある意味瞑想的な行為でもあるので似ているっちゃあ似ているのかも。
運動が鬱にいいというのは前から実感があったので、知り合いの精神科医に聞くと、運動療法を取り入れた場合の鬱病の再発率は30%、取り入れなかった場合の70%に比べて高い効果を示しているという(どういう内容の運動療法なのかは聞いてない。今度会ったときに詳しく聞いてみたい)。

あと、今ふと思い出したのだが、身体を使うことに関してはひとつ、こんなことが。
最近やっていないけれど昔、趣味でファイヤーダンスやってたんですが、これの練習方法ってのは紐の付いたボールを左右片方ずつふりまわして練習して最後に半拍ずらして両方を合わせるというものなのです(わかりづらいので動画を見てください)。

[youtube]http://www.youtube.com/watch?v=ns-uIFayMU4[/youtube]
↑小さいのがワタクシデス

これが初めてやる技の場合、ぜんぜんできない。
でも出来たときに脳の中でなにかの回路が繋がった! という感動があって、それが算数の問題とかを解いたときにとっても似ていて、身体と観念が悪魔合体した! コンゴトモヨロシク! みたいな感じがスゲエ、マジスゲかった。身体と精神のつながりを感じたという意味ではこれほど劇的なことはなかった(ちなみに、ワタクシ、運動神経鈍いです、ジャグリング的な作業は運動神経とはあまり関係ない気がする。野球とか集団作業は協調性がないので相変わらずできません。誰に何をすればいいのかさっぱり……)。

というわけで『Born to RUN』、去年読み終わっていて、もっと早く紹介したい本だったのだけれども忘れているうちにこんな時期になってしもた。

たまたま数日前にNHKのタイムスクープハンターで「風になれ!マラソン侍」というのをやっていてふと思い出したのでだらだら書いてみた。
あ、そうそう、ここで紹介されているナンバ走り、練習してた……。

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ナンバ走り (光文社新書)

ナンバというのは両手両足が同時に出る走り方で、昔のひとはこういうふうに走っていたらしい。戊辰戦争あたりまではわりとメジャーだったそうな。西洋式の走り方が入ってくるまえでは、いろんな走り方があって、例えば古い絵で両手をバンザイして走っている人が書かれたりするけど、あれはまんまほんとにああいう風に走っていた……とかいう話を聞いたような気がします(うろおぼえ)。
通っていたジムにもナンバの身体の使い方する人がいて、すげえ不思議な動きでした。
その方によれば、ボクシングとナンバは相性が良いらしく、原理的には、農耕民族の動き(鍬を振り下ろすのと足が同時)→剣道の動き(踏み込みと剣が同時)→ボクシングの動き(踏み込みとパンチが同時)、ということです。
なるほど! ということで、一時期に甲野先生の本読んで一本高下駄はいたりしてナンバの練習したのですが、結果、自動車に跳ねられました。痛かったです。(高下駄のサイト→ http://www.gendaiya.co.jp/s_sgtakagetatengu.htm)。

後に、ワタクシ、実際に甲野先生のワークショップに参加して技をかけてもらったりしたこともあるのですが、どうにもこうにもさっぱり原理もなにもわからず。小学校のころにいじめられてキン肉マンの技をかけられていたこととか思い出してブルーになりました。


DVD60分でよくわかる! 甲野善紀の身体革命(DVD付) 学研ムック

そんなわけで、一体なんの話をしていたのかさっぱりわからないけれど、とにかくたぶんランニングについての話でした(支離滅裂でも誰にも文句言われないブログって素晴らしい)。

・リンク

裸足ランニングについては

こないだユニクロの1000円くらいのつっかけで15キロ走っても大丈夫だったので、ベアフットにもチャレンジしたいなあ。
身体についてはこれもおもろかったです。

あとNHKといえば、BShi ハイビジョン特集で今年の3月に「人は走るために生まれた メキシコ山岳民族・脅威の持久力」という番組も放送されました(見逃した)。

気づいたら今日の話題の半分以上はすでにBorn to RUNのアカウントで紹介されていたものという結果……スゲエな。

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