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【書評】「魔法使いの弟子の囁き」

U179 ナイフ投げ師

ミルハウザー関係の文章、その2。これは「すばる」に載ったそのものズバリの『ナイフ投げ師』書評です。ぜひみなさま買いましょう。てか、ミルハウザーは内向的で暗くてファンタスティックで非常に良いので、ぼくと波長があう人ならきっと好きだと思います。

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「魔法使いの弟子の囁き」

ウンベルト・エーコは『エーコの文学講義』の第一講目において「語りの速度」について述べている。内容を要約すればこうだ――速く語れば多少の無茶は許される! 桃の中から赤ん坊が飛び出す奇怪な物語でも、さっさと主人公を鬼退治に出かけさせれば聞き手には疑問を持たれない。逆に細かく解説するほどボロが出る。この「速度」の問題は小説において非常に重要である。今日で言うなれば携帯小説が最速で、ロシア古典文学あたりが遅いといった具合だが、早ければ面白いわけではないし、遅ければ重厚なわけでもない。前者は薄っぺらいという批判に晒され、後者は最後まで読まれないというリスクが生ずる。時に速く、時に緩やかに、速度さえ忘れさせてくれる魔法のような語りこそが理想ではなかろうか? そういう物語を読みたくないだろうか? あなたが首肯したところで、すかさず私が差し出すのはスティーブン・ミルハウザー『ナイフ投げ師』である。地味なタイトルと「そのままやん」とツッコミたくなる装画(男がナイフを投げている)に首をひねるやも知れぬが、これこそ、あなたが求めてやまぬ魔術的な語りに満ちた書物。多忙な方も心配ご無用。12の短篇で構成されているゆえ、どれから読んでも良いし、すぐ読める。試しに湯船に浸かりながら気楽に読んでいただくとしよう。頁を開くとまずは表紙の男「ナイフ投げ師」が華麗に現れ、圧倒的な技を披露する。その至高の芸に圧倒されているうちに物語は終わり、あなたは熱に浮かされたように次の「ある訪問」を読み始め、登場する友人の妻の姿に度胆を抜かれ、子供たちの怪しげな秘密をめぐる「夜の姉妹団」にさしかかる頃、頁をめくる手はもう止まらない。間男が味わう悪夢「出口」。口直しは「空飛ぶ絨毯」楽しくも儚い夏休みの想い出。続く「新自動人形劇場」のからくり人形に魅了されるあなたの瞳はサーカスを見る子供のようだ。ドビュッシーのメロディの如き「月の光」の読後、酩酊した足で歩く百貨店「協会の夢」で迷子になってもご安心を。「気球飛行、一八七〇年」が冒頭の一行で空に舞い上がられせてくれる。あなたはふと気になる。いい加減のぼせても良い頃だ……気づくとそこは湯船の中ではない。どこなのだ?麻薬のような遊園地「パラダイスパーク」を通り抜け、謎の奇人の演説「カスパー・ハウザーは語る」その声に耳をかたむけよう。ここがどこか?そんなこと忘れれば良い。カッパドキアの遺跡の如き地下通路「私たちの町の地下室の下」を読み終わる頃、あなたはもうミルハウザーの世界で溺れ死んでいる。

すばる 2008年 04月号 [雑誌]
(初出:すばる 2008年 04月号

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翻訳小説とふたりのハウザー

U179 ナイフ投げ師

ミルハウザー『ナイフ投げ師』が白水Uブックスでちょっとばかしお求めやすくなって登場。うーん、ダウンサイジングのためにまた買うか……ということで、2008年に書いたミルハウザー関係の原稿「その1」を公開。今読み返すと浪漫主義と倦怠ってところは、のちに國分さんの『暇と退屈の倫理学』で指摘されているような感じで、けっこういいところをついてたような気がしなくもない。ちなみに海外では去年ミルハウザーの新刊が出ているらしい。
http://www.nytimes.com/2011/09/04/books/review/we-others-new-and-selected-stories-by-steven-millhauser-book-review.html?_r=1&pagewanted=all?src=tp

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「翻訳小説とふたりのハウザー」

この宇宙に存在するあらゆるすべての翻訳小説は、必ず私を不安にさせる。

文章がゴツゴツしていて、やたらと描写が緻密で、たとえばある人物が登場する際には服装や顔立ちや経歴、そして部屋の描写が仔細に何頁にもわたって行われ、無駄にシャレた会話(たいていシェイクスピアの引用だったり)をする――というようなものが、私が勝手に考える翻訳小説の姿で、とかく大変とっつきづらいものとして認識されていたが、それはそれでまあ、仕方なしという思いもあった。なぜなら、「そこにテーブルがあった」と書けば良いのに、テーブルの配置から材質から由来から値段からを延々と描写してしまう理由というのは、きっと日本以外の国は多民族国家であり「テーブル」だけでは、和風なのか、洋風なのか、イスラム風なのかがわからない。だからこそ翻訳小説では厳密な描写が求められるのだ――そう信じていた。当たり前だが、そのような私の考えが根本的に誤りであることははるか以前に認知され、今では概ね修正が完了している。翻訳小説のすべてが、ゴツゴツしてもいなければ厳密であるわけでもないし、シェイクスピアの引用で話をしているなどという、翻訳小説をナメているとしか思えないそんな思い込みは、もうない。だがしかし、未だに翻訳小説は私を不安にさせる。

その真の理由とは、それが【翻訳】であるという根本的なところにある。当たり前だが翻訳という行為は、どうやっても純粋な作品の二次加工にならざるを得ない。文学におけるこの加工は、音楽においてクラシックの生演奏をCDにするようなこととはわけが違う。何せ、ある国の言語が、まったく別の国の言語に変換されるのだ。音楽に例えるならピアノ演奏をギターで再現――くらいの差があるのでは? などと、素人の私などは思ってしまうわけで、そのあたりがひっかかって翻訳小説は原文で読まなくてはならない……という強固な思い込みに囚われた時期もあった。その考え自体はあながち間違いではないものの、私の頭と相談したところ、正直、絶対に無理だという答えが出た(かつて、イアン・マキューアンの短編集『最初の恋、最期の儀式』のペーパーバッグを購入し、読み比べようとして「こ、これは……翻訳が全部間違っているッ!」と驚愕したが、よく見ると、日本語版と英語版で作品の収録順が違っていただけだった……)。

前記のような翻訳小説に対する捻れた想いから、私の読書量は長年7:3の割合で国産本に偏っていたのだが、近年それが逆転しつつある。それはなぜか……良く分からぬが、おそらく妙な思い込みや、無駄な偏見から自由になったせいだと考える。とりもなおさず、そのことを一言で言うなれば「大人に近づいた」ということに尽きる。それを自覚したとき、私はなんとも言えない複雑な気分に襲われた。そして、この複雑な想いこそが、スティーヴン・ミルハウザーの作品に通底する【なにか】なのだと気づいた。

夜の姉妹団―とびきりの現代英米小説14篇 (朝日文庫)国産小説から翻訳小説へと読書人の興味が移行する自然なパターンとしては、村上春樹→レイモンド・カーヴァー→柴田元幸(今だと、古川日出男→スティーヴ・エリクソン→柴田元幸、か?)という黄金パターンが存在するが、私がミルハウザーと出会ったのは、まったくの偶然で、なんとなく手に取った『夜の姉妹団』というアンソロジーに入っている表題作を読む幸運に恵まれたためである。ミルハウザーという名を呟くたび、私の頭の中では七色の煙が立ちのぼるのだが、そのイメージの元となっているのは、幼少期に怪しげなオカルト雑誌で読んだ、謎の少年カスパー・【ハウザー】の神秘的なイメージのせいだということは疑う余地がない。一九世紀ドイツに突如として現れた言葉もなにも知らない少年(未来人であるとか、さる高貴な血筋の落胤であるとか言われているが、特技は暗闇の中でも目が見える……くらいで、割とショボい)と、このニューヨーク生まれのアメリカ作家は、【ハウザー】つながりで私の脳内の比較的近い位置に配置されている。『夜の姉妹団』は思春期の少女たちの秘密結社「夜の姉妹団」をめぐる話であるが、大人たちが彼女らを監視し、結社の正体を暴こうとする。だが一向にその実体がわからない……。結社の存在が大人たちの妄想なのか、果たして大人だから見えないのか、それがわからない。読んでいるとこの作品が、まるで大人と子供をはかるリトマス試験紙のように思えてくる。大人と子供、どちらの気持ちも理解しつつ、どちらに荷担すべきか……その読後感は、まさに自らの思春期がまだ終わり切っていないことを認識させらるものであった。国内で読めるミルハウザーの小説は決して多くはないので、すぐに読み尽くしたが、私は長編よりも、バリエーション豊富でお得な短篇集や中編集のほうが好みで、中でも『イン・ザ・ペニー・アーケード』の第一部「アウグスト・エッシェンブルク」を贔屓にしている。

イン・ザ・ペニー・アーケード (白水Uブックス―海外小説の誘惑)この作品は、時計職人の息子が自動人形に心を奪われたがために送る栄光と挫折の物語を描いた中編だが、その仔細な描写は、私が当初、翻訳小説に抱いていたマイナスイメージとはまったく逆のものであった。確かにミルハウザーを評して描写の執拗さを賛美する者は多いが、それよりも淀みなく流れる語り口に魅力を感じた。描写のひとつひとつが小さな歯車でありつつ、通して読めば自然に全体と融和し、すべてが有機的に違和なく繋がっていく……。やがて、それは作品のテーマである自動人形の歯車のイメージとかみ合い、最期には全体を統括する「ペニー・アーケード」のショウウィンドウのひとつになり、入れ子構造を現出させる。

私はこの中編を何度も再読したが、その度に新鮮な発見があった。たとえば、この中にハウゼンシュタインという男が出てくる。これはアウグストほど才能がないサリエリ的な立場の美青年で、明るくて頭が良く、饒舌で狡猾な世渡り上手である。初読でこの男が嫌いになった。終盤あたりで、自分のもとから去っていこうとするアウグストを、友情をダシにして引き留めようとする部分が、まるで女を騙す手練れのようでいやらしい。しかし、時間が経過して再読すると、ハウゼンシュタインは現実の厳しさを知ったリアリストであり、そのうえで芸術とアウグストを愛するという深みを持ち合わせているが、主人公アウグストはハウゼンシュタインの愛情に気づきすらしない世間知らずの器の小さい頑固な男――そんなふうに印象は変化した。先日も、風呂にはいって再読している折りに、ハウゼンシュタインがどういった口調で話すのかが気になり、多種多様なニュアンスで真似てみたのだが、実験の結果、シャアと花輪くんをかけあわせたものが最も近いのではないかという結論にたどり着いたがそんなことはどうでも良く、私はその時、ハウゼンシュタインとアウグストを透かして、作者を見た気がした。

エドウィン・マルハウス―あるアメリカ作家の生と死 大人になってしまった自分に対する諦念、子供時代への郷愁、芸術への情熱と敗北。それを通奏低音としながら、流れる主旋律は――天才と凡人、現実と幻想、子供と大人といった両極端な二項対立。だが、物語は普通の娯楽小説のように、衝突しながらやがて中庸へ到るというわかりやすい終幕には到らない。ミルハウザーは似通ったテーマを繰り返し変奏する作家だとよく言われるが、作品世界を覆うトーンはそれぞれかなり違う。同じ天才の最期にしても「アウグスト・エッシェンブルグ」の哀愁に比べると、「J・フランクリンペインの小さな王国」のラストは感動的だし、「幻影師、アイゼンハイム」は伝説化したという意味で幸せだ。これらの中でも、ミルハウザー自身がもっとも透けて見えるのが「アウグスト・エッシェンブルグ」である(とは言え、これは私の勝手な思い込みでもある。『エドウィン・マルハウス』における記録者のように、ミルハウザーに筆者自身を投影している可能性は否めない。でもいいのだ、読書に正解はない)。物語の最期、主人公のアウグストは挫折した現実を受け入れてなお立ち上がるが、その先行きは決して明るいものではない。かといってそれほど暗い運命を予感させるわけでもない、ただ当たり前に続く人生が明示される――この達観と、アウグストがハウゼンシュタインを評す“あきらかに退屈していた。才能よりも知性がはるかに上回る人間にありがちなように、心から退屈しきっていた“との言葉、どうもこれがミルハウザー自身のことを表しているような気がしてならない。退屈な日常を忘れるために小説を書いている彼の姿は、作品の登場人物たちの辿る運命と同じく平凡な日常に回帰してしまうことに抵抗しているように見える。心の奥には根深い敗北主義者が潜んでいるが、書くことに耽溺している間、ミルハウザーは輝いている。ゆえに終わりに近づけば近づくほど物語は悲哀の色を帯びるが、決して過剰な絶望には到らない。これは例えば、同じように人形に憑かれる男を描いたロマン主義的な作家でも、自ら命を絶ってしまったサーデグ・ヘダーヤトとは対称的である。ヘダーヤトの短編集『生き埋め』に所収されている「幕屋の人形」の主人公メヘルダードは、現実に背を向けて人形を愛す男だが、最終的に現実と向き合おうとしたがために悲惨な最期を迎える。メヘルダードが愛するのは人形の外面であるが、アウグストはその機械仕掛けの内面を愛する。両者とも、人形の正反対の部分にひかれながらも本質的な美に魅せられていることは共通している。美はどこかにイデア的な本質が存在している――かつてはそう信じられていたが、それはまやかしである。不可視ゆえにあると思ってしまうだけなのだ。これは人間の心理的陥穽と言えよう。

生埋め―ある狂人の手記より (文学の冒険) ロマンが現実の倦怠と絶望を忘れようとする一時の虚飾だとすれば、サーデグ・ヘダーヤトの死はその究極である。しかし、ミルハウザーは退屈しつつも生きている。ヘダーヤトは『生き埋め』において“誰もが死を怖れるが、僕は執拗に続く生が恐ろしい”と書いたが、ミルハウザーはこの恐怖を、輝いていた子供時代や、芸術、ゲーム、天才たちを夢想することによって回避し続ける。この根底にある小さな希望がどこから来るのか。それは、訳者が『イン・ザ・ペニー・アーケード』のあとがきでも引用している“大切なのは、ある日くすんだ緑のテントにいた自分の内部で何かがぱっと輝き、以来それがいまだに消えていないという事実”であり、ミルハウザーの空想展覧会ともいうべき『バーナム博物館』において”私たちは、何度もくり返しバーナム博物館へ戻ってゆく。私たちにわかっているのは、自分がそうせずにいられないということ、それだけ”であり“出入り口は新たな部屋へつながり、そこにはまた新たな出入り口があり、その向こうに遠い部屋、遠い出入り口、思いも寄らぬ発見がほの暗く見え隠れしている”という、無限に輝きを発掘する逞しさと、したたかさである。
たしかに、心に発見した輝きは消えてしまいがちなものだ。私が子供の頃に怪しげなオカルト雑誌で出会った謎の少年、カスパー・ハウザーの神秘は、もはや胸の奥でくすんでいる。しかし、ミルハウザーは耳元で囁く――輝きはいつでも取りもどせるし、発見できるものなのだと。
私は頭の片隅から、カウスパー・ハウザーが生前、丘の景色を見ながら漏らしたとされる言葉を掘り起こす。
“あの地下牢から出てこなければ良かった(……)あそこにいさえすれば、何も知る必要もなければ、何も感じる必要もなかった。もう子供ではないという苦しみ、そしてこんなに遅くなって世の中にやってきたという苦しみも、経験しないですんだろうに……”
この言葉が、ミルハウザーの作品と深く共鳴しているのは偶然だろうか。私の頭の中でいまや両者は、近い場所ではなく重なり合わんばかりに近接し、輝きはじめている。ミルハウザーの小さな囁きが、私以外の人には違う言葉に聞こえるとしても。輝きを発見できたなら、それは、言葉が違えども伝わる【なにか】があることを証明する。
そして私はまた発見する――大人になったからではなく、それを知ったから、私は安心して翻訳小説を読むことができるようになったのだと。

追記:輝きは発見できたが、それでも翻訳小説が不安だ。というような、私を上回る心配性の方には、世界中の翻訳者の粉骨砕身ぶりが窺える『世界は村上春樹をどう読むか』をお勧めする。これで駄目なら……あきらめよう。

ユリイカ2008年3月号 特集=新しい世界文学

(初出:ユリイカ2008年3月号 特集=新しい世界文学


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書評『ぼくは落ち着きがない』


▼オレらとキミらの落ち着くとこ

図書室の奥、ベニヤの合板で仕切られた部室、それをコンコンとノックする。 「なんだ?」内側に響いたらしい。 「今、コンコンっていったぞ」 「入ってまーす」

この本、かなりイイかんじ。いや、マジで。 内容を一言で説明すれば「桜ヶ丘高校図書部員たちの日常を描いた作品」なんだけど、読んでたらいまどきの高校生(文系)になったような気がしてくる。でも、大人が子供の世界を「等身大」に描けるなんてありえるのかな? 携帯電話の機種のことで言い争ったり、マンガの話題で熱くなったり、『カツクラ』が重要な情報源だったり、細かいディティールがなんだかホンモノっぽい。もしかしたら大人からみたら、子供である高校生の空間なんて簡単に書けるのかもしれない。だって子供の世界なんか、この小説に出てくる部室――ベニヤで仕切られた空間の内部――みたいな狭いもんなんだから。でも、これを書いた人が心がけたのって、高校生をリアルに描くとかそうゆう部分じゃなくて、別のところにあるような気がする。もしかするとこの人、オレらが読んでる携帯小説とかライトノベルの気持ちよさ(ゲーム的リアリズム)を、おじさんとかが読んでる小説の手法(自然主義的リアリズム)で描こうとしたんじゃないかな。 どうゆうことかってゆうと、「なんだかうまく言えないけど、なんかいいよね」みたいな感想しか出てこないタイプの小説があって。たとえば保坂和志さんの『プレーンソング』とか。あれは、小説からネガティヴな磁場をとりのぞくっつー、従来のネクラ文学へのカウンター的手法を取り入れた結果、起伏はないけど、なんかキモチイかんじを出すことに成功してる。保坂さんは自分の本のなかで――たとえば「○○は去っていった」という文章があれば、その○○さんとは二度と会えないような気がする。叙述された文、および小説にはどうしてもネガティヴな磁場のようなものが発生してしまう――とかってゆってた。これは、確かにそうかもって思える。だいたい、文章をつらつらと書き連ねる動機のほとんどって、頭のなかでかかえきれなくなった悩みとかじゃん。それに「文学」ってだいたい人が死んだり悩んだりするじゃん。そこから連想されるのって、軽いもんじゃなく、重くて、どっか暗くて湿っぽいもんだけど、でも、これって「文学」に慣れ親しんだ人のもってるイメージかも。もし仮に楽しい小説しか読んだことのない人がいたとしたら、保坂さんがゆってるみたいな「ネガティヴな場」を小説とか叙述される文には感じないと思う。その証拠に、たとえばオレ、大正時代のものを読んだら、どんな暗い話でも、その裏に萌えキャラとか蒸気機関で動くロボットの気配を感じる(大正時代を舞台にした「サクラ大戦」というゲームの影響だけど……)。まあでもそれはオレが頭悪いからかも。でもオレらの本の読み方って、そういう感じで、おじさんとかの読み方とはぜんぜんちがう気がする。 なんの話してたっけ……えーと、つまり、この小説って、比較的新しい文学であるラノベ的な気持ち良さと、おじさんたちが感じてる従来の文学の匂い。その両方があって、双方が理解できる中間くらいのポイントでうまく書かれてて、しかも、それは意図的なものだろうってこと。この人の作品って、読んでるとサブカルチャーに囲まれて生きてきたんだなって感じがする。それってすごく広いのに窮屈で、寛容そうに見えて自己完結してて、その気分って、

このベニヤの壁の外にあるのは図書室だけではない。世界の全部があるのだ。  (中略)  皆いつだって、うつむいて携帯電話の液晶の画面をみて、メールをしている。皆、「誰か」にしているんだ。だけど、本当に、皆、この世界そのものをノックしているのかな……。

とかっていう一節に書かれてることに近い。 でも、オレらがほんとにひっかかってるのは「この気分」じゃない、もうひとつ上の段階の「気分」。どういうことかってゆうと、この一節って、登場人物が自分をとりまく狭い世界に疑問を抱くというごく自然な流れだけど、考えてみると彼女自身が実は小説の登場人物=キャラクターなわけで、普通はそんなこと関係ないだろうけど、オレらはこのことに自覚的にならざるを得ない。そうすると登場人物が疑問を抱いている世界って、フィクションの世界のことで、それに感情移入しているオレたちって一体なんなの? ってなふうに、どこまでいっても「らしさ」(リアリティ)しかないこの世界の現実について考えてしまう。世界がどんどん嘘くさくなっているから、本当のことだって全部嘘に見えてしまう。フィクションもノンフィクションも、どっちだって同じで、だからこそ何の引力も感じずに自由にそこを往き来できる。けど、この作者はかすかに引力を感じてて、それを技術で振り切ってる感がする。だからこそ作者が意図したほど、登場人物がキャラクター化していない――背景はなんかリアルなのにウソっぽい心地よさがある。この作品は、引力の均衡点(ラグランジュポイント)みたいなところに浮かんでる。ラグランジュポイントはスペースコロニー建設に最適……つーことで、ゆとり世代のブンガクと、旧世代の文学が共存するための最初の一歩かもしれない。違うかもしれない、そうかもしれない、オレも落ち着きがない。

◎補足:読後、カバー裏にある登場人物たちの後日談で、驚くべき事実が明かされるのだが……それは読んでからのお楽しみということで。(文庫版もあるのか??)


初出:群像

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