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群像9月号に新作小説

群像 2012年 09月号 [雑誌]

群像の9月号に「モネと冥王星」という新作小説を書きました。
瀬戸内海のとある島で母親と暮らす中学生の少女、水原モネが出会ったふしぎな男との数日間。
文芸誌にまとまった小説を書くのは気づいたらけっこうひさしぶりで、自分でもうわあ……とビビりました。
100枚以上のものって、何年ぶりなんだろう(といいつつゲンロンで進行中の「ディスクロニアの鳩時計」のほうが長いんだけどね)。

世の中もいろいろあるんですが、個人的にもいろいろあって、まあ、そういういろいろが形になった作品です。

そういえば、いま、モネといえば、同じく印象派でくくられがちなドビュッシーにまつわる美術展が行われています。ブリヂストン美術館で10月までやっているのでぜひ。行ってから小説を読むとなんかいろいろと読み方が変わるかもしれません。
売店にあった曲が聴けるバッヂが気になった……買わなかったけど。やっぱ欲しいな……。
ドビュッシー自身が語る音声案内がオススメ。

■展覧会公式HP
ドビュッシー 音楽と美術 ー印象派と象徴派のあいだで

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無頼は無理とて道理は通す

文筆業を生業としてから確実に人生が狂っている。
別に頼まれたわけでもなく自分勝手にやっているので誰に文句を言うわけでもないが。去年末あたりから家賃が払えず友人の家などを点々とし住所不定となり、手持ちの銭も尽き、この度ついに借金生活と相なった。原稿を書けば解決する話なのだが、どう書いても納得がいかない。悩みをこじらせて挙げ句の果てに頭がどうかして、唐突にボクシングジムへ通い始めて殴られまくり、殴られるたびに記憶が飛ぶのでいい具合になにもかもがどうでも良い感じになってきている。無頼作家ならそれも武勇伝の一つになるが、私は「海猫沢めろん」である。わけがわからない。だが芸道は芸がすべて。筆名などどうでも良い。しかしながら、見返りを期待するのも浅ましいが、このようなけもの道を進んだところで、たいして得るものがないのは悲しい。唯一あるとすれば、トレーナーが経営する居酒屋で無銭飲食が可能になったことくらいであろうか。これはありがたい。なにせ最低限、餓死は免れる。しかし本業のほうはまったくなにも進まない。従って精神状態はどんどん悪化してゆく→殴られに行く→腹が減る→無銭飲食→精神悪化……という負の円環運動を繰り返していた。
そんなある日の真夜中、妄想から来る幻聴を消すために近所の墓地を全力疾走していると縁石に足をひっかけ、墓石に頭をぶつけて死にそうになった。呻きながら起きあがると、近くの墓が目に止まった。墓石は低い柵で囲われ、そこには真新しい缶ビールなど、いくつかの供物がある。気のせいか、あたりの墓の中でそこだけが燦然と輝いているように見えた。無頼の作家、色川武大の墓であった。供物はファンの厚意だろうか。それともギャンブルの神様と呼ばれた作家の御利益にあやかる魂胆か。私は前の年にパチンコ依存症になって大枚を失い、その前の年はネット株依存症でまた大枚を失い、半年間アルバイトをする羽目に陥ったため、もうギャンブルはやらないと決めており、故人をギャンブルの神様として崇めたりはしない。けれど、少しだけシンパシーを感じたことがある。それは少し前、彼の『寄席放浪記』を読んでいたときのこと。この中で色川は五街道雲助という妙な名前の噺家にこう告げる。「不道徳を名前に背負ってるのは、阿佐田哲也と五街道雲助と、日本じゅうで二人きりだぜ。変えないでこの名前で大看板になってくれよ」。色川武大が阿佐田哲也を名乗ったことの誇りと含羞がこの言葉にはある。姜尚中の自伝『在日』にも名にまつわる自己同一性の苦悩が描かれていたが、筆名の懊悩はそれとは少し違う。ほとんど共感されない悩みである。だからこそ私は、彼が生きていたら「不道徳を名前に背負ってるのは、阿佐田哲也と海猫沢めろん二人きりだぜ」そう言って肩を叩いてくれただろうかと考えてしまう。墓と対峙し、思わず熱いものがこみ上げた。が、ふと疑問が過ぎる。色川は一体どういう気分で「不道徳を名前に背負」ったのだろう。そこに苦悩はあったのか。
彼は六〇年の生涯で四つの筆名を持った。色川武大、井上志摩夫、雀風子、阿佐田哲也である。このうち有名なものが色川と阿佐田だ。井上名義では時代小説を、雀風子では麻雀随筆を、それぞれ書いていたというが、私は読んだことがない。本名の色川で新人賞を獲ったあとスランプに陥り、難病(伝説の奇病ナルコレプシー)を患うなどして散々な目に逢ったあげく別名義、阿佐田哲也の『麻雀放浪記』がヒットする。その後、晩年近くは色川名義の小説で名だたる賞を獲得している。怠け者の若輩がとやかく言えるようなものではないが、あえて一つだけ、私は色川が筆名を使い分けたその一点について納得できない。彼がもし最初から阿佐田哲也として世に出ていたならば「不道徳を名前に背負う」の言葉に込められた覚悟が分かる。だが、単にリスクヘッジのために筆名を使い分けていた人間の言葉だとするならばそこに込められた重みは違ってくる。果たしてどちらなのか。考えてみるが、阿佐田哲也という名には無頼をあてこむいやらしさがない。芸人びいきの色川の、さらりとした粋が感じられる。自らを「怠け者」「たいした人間ではない」「正しい生き方も邪な生き方もできない」と言う彼のこと、筆名など気にしていなかったのだろう。そう思った途端、怒りがこみ上げてきた。やりきれない気持ちに襲われ、私は墓に供えられていた缶ビールを握りつぶすように奪い、それを飲んだ。完全に八つ当たりなのだが。とにかく飲んだ。そして、吐いた。私は下戸だ。
明朝、それを後悔した。『狂人日記』の自筆年譜を見たところ、「変名で売文することが空しくなり、不意に廃業」「禁を破り変名“阿佐田哲也”で原稿料の高い週刊誌に麻雀小説を書く」という記述を見つけた。しかも変名を使って書く理由は経済的な貧窮。自らの信念を覆すのは血を吐くような無念だったであろう。私にも覚えがある。無頼などといえば豪放磊落で細かいことは気にしない。勝手気まま自由に生きたというイメージだが、彼の内面はそうではなかった。酒を飲み笑いながら病苦に耐える。結婚した三年後に『離婚』を書く。色川の人生は自由に見えて不自由、不自由に見えて自由。ならばその狭間で遊び続けることこそ彼なりの無頼ではなかったか。それは、〈無頼〉という言葉の逆説を照射する。頼る物あってこそ〔無い〕という概念は成立するのだ。
猛省しつつジャージで部屋を飛びだすと、酒を買って霊園に走った。

初出:群像 2008年

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書評『ここに消えない会話がある』

九〇年代~〇〇年代において隆盛を誇った、いわゆる「セカイ系」と言われる作品群は様々な批判にさらされながらも、劇場版ヱヴァンゲリヲンのヒットに見られるように、今なおその命脈を保ち、商品としてのニーズをまだ失ってはいない。そのセカイ系に対するひとつの批判として「社会構造を描け」、というものがある。内向より外向というわけだ。だが、セカイもシャカイも認識の枠組みでしかない以上、知識の過多の差でしかないのではないのだろうか。

確かに井戸と海はちがう。しかし、乱暴に言ってしまえば、水たまりという意味ではなにも変わらぬ。井の中の蛙が大海を知らぬとなぜ断言できる? 紀元前、アレクサンドリア国立図書館の館長であったエラトステネスは、地上にいながら地球の周囲の長さを求めたではないか。しかも棒きれひとつで。アインシュタインは火星に住んでいたか? ポアンカレ予想を解いたペレリマンの家は一二次元にあったか? 否、誰もがこの狭い世界で生きていた。巨視的に把握すれば確かにこの世には、個人、社会、世界、という構造があるかのように見える。啓蒙主義的な立場からそれを示唆するのは確かに心ある親切な態度だが、「社会」という概念を押しつけずとも、この日本にはもっと適切な「世間」という言葉があるではないか。「個人」と「世界」短絡に陥ることない「セケン系」というものが、セカイ系とシャカイ系の間にあっていいのではないだろうか。『ここに消えない会話がある』にはその「セケン系」の可能性が描かれている。

新聞のラジオテレビ欄を制作する会社で働く、二〇代半ばの男女六人(広田、岸、佐々木、別所、魚住、津留崎)が、それぞれ仕事仲間として会話を交わし笑い会う「職場」小説――著者自らがエッセイで“私は映像イメージが湧くようなものや、ストーリーにうっとりするようなものは書かない。言語表現として面白いもの、ぎりぎりのもの、甘くて硬いものを書きたい”と宣言しているが、それはつまり、登場人物を物語の従属物として描かないという意味でもあろう。その意志は完遂されている。
『ここに消えない会話がある』というタイトルは非常に矛盾に満ちた言葉だ。「ここ」と書かれた瞬間に時間はすぎ、もはや「ここ」はどこにもなく、「声」によってなされる「会話」が消えないなどということはありえない。だが、たしかに、ありえないはずのものが[ここ]には[ある]。

主人公の広田は、心の中に暗いものを抱えて毎日をやりすごしている。彼は冒頭で夏の気配と海風を感じるが、それは、ただ爽やかなだけではなく、不穏な気配と背中合わせになっている。それを救うのは、大きな事件でも、彼のパソコンのモニタにびっしり貼られた箴言――「文字」――でもなく、会社での小さなコミュニケーションである。他愛のない「会話」と、ラテ欄の間違いを探すための「読み合わせ」。この空間でかわされる会話は彼らの仕事や日常の一部でもあり、癒しでもある。着かず離れず、絶妙な距離感で醸成された「世間」が、広田を、短絡的なセカイ系に流れるのを引き止める。
ここで描かれる登場人物同士の「ゆるいつながり」はまた、縦(作品内)と横(作品外)にもひろがっている。
例えば、彼女のデビュー作である『人のセックスを笑うな』のヒロインであるユリの夫は、本作の登場人物たちと同じ「新聞のテレビ欄を作る仕事をしているサラリーマン」だったし、『浮き世でランチ』の主人公、丸山さんの職場は「海のちかく」であり、仕事は会社紹介の情報誌作りだ。夕方になると、口に出して原稿を読み合って文章に間違いがないかをチェックする「読み合わせ」の作業をする。無関係ながらもどこかで接点を感じさせるその感じは、最近流行している「Twitter」とも良く似ている。
「Twitter」とはマイクロブログと呼ばれる、ブログとチャットの中間のようなもので、ひたすら一四〇文字以内の「つぶやき」を投稿していくという奇妙なサービスである。例えば今の私ならば「恐山から帰ってきて原稿書いてるなう」「マジやべえ、締め切りちけえ!」「ピルクル飲みすぎてお腹がいたいのニャ……」とかなんとか、そんな感じのつぶやきを投稿する。そうすると、上から下へと順に、自分のページにそれが表示される。
「Twitter」内では様々な人が「つぶやき」を公開しており、気に入った人を「フォロー」することによって、自分のスレッド(タイムラインという)に、自分の発言に加え、その人のつぶやきが時系列で表示されるようになる。どんどんフォロワーを増やしていくと、その人数分、ウインドウが賑やかになっていくという仕組みだ。もちろん一方的につぶやくのではなく、相手のつぶやきに対して返事を返すことも可能だ。一行ニュース配信サービスを行っている新聞社、短い小説を書いている作家、知人、友人、知らない人、ウインドウの中でいろんな関係性が入り乱れて勝手なことをつぶやいている様は、まるで休日の騒がしいファミレスのようで、楽しいとかを越えて、もはやカオスであり、小さく圧縮された世間のようだ。「いまなにしてる?」「原稿書いてる」「らーめんたべたい」「ファイル消えた」流れていく「消えない」「会話」。
それが、ゆるくつながる時代の空気なのだ。

2010年、米国議会図書館はツイッターの記録をすべてアーカイブすると決めた――ここにもまた消えない会話がある。

初出:2009年 群像

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群像にエッセイ


ベスト3とか10という言葉は変だ。
bestは最上級なのにひとつじゃなくて3つもあるのが変だ。
慣用句なので気にする必要はないのかもしれないが、やはり変だ。
そんなことを考えながら群像 2011年 12月号 にエッセイを寄稿しました。
タイトルは「二度と食べたくない料理ベスト3」です。

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