「ユリイカ」カテゴリーアーカイブ

涼宮ハルヒの声

文化系トークラジオLife、2016年10月放送分のテーマは2.5次元。ということなのですが、予告編をきいて、過去に書いたこの原稿のことをちょっと思い出したので考えるきっかけとして掲載しておく。
いやしかし五年前の原稿にもかかわらず、えらい風景が変わったなあ……あのころってVRやらAIやらほとんど話題になってなかったもんねえ。


涼宮ハルヒの声

架空のキャラと人間の命はどちらが重いのだろう。
そのような問いは立てるまでもないことなのだろうか。そんなことを正気で聞くぼくは変なんだろうか。

2011年5月31日。ある声優に2ちゃんねるで殺人予告をした男が札幌で逮捕された。
犯人はツイッターのアカウントを所有していて、ニュースを知ったぼくは興味半分にそれを見た。定型文の続くタイムライン。埋め尽くされた殺人予告と鉄道ネタ。遡ってみると、偶然かもしれないけれど、彼の危険なツイートはちょうど震災を境にして発生していた。そのツイートには、奇妙なことに生々しい感情がなかった。まるでプログラムのように無機質な宣言文。botの吐き出している定型文ではないかと思ってアカウントを見ると、彼自身の、そのままの本名で運営されていた。名前を隠さないという無防備さから、彼の現実に対するアンバランスさが感じられ、奇妙に現実が歪んだ気がした。

ぼくは10代のころ、ある声優のファンだった経験がある。好きだったあるマンガがアニメ化されると聞いてワクワクし、ビデオに録画してそれを見た瞬間、その声が、あまりにキャラクターのイメージのまんまだったことに胸が高鳴った。そして、ぼくはその声優に一瞬で恋をしていた。いま考えると、その声優は決して整ったルックスだったわけじゃない。一体どこが好きだったのかわからない。ぼくは架空のキャラクターのかけらをその声優のなかに見ていたのだろう。
架空のキャラクターに声が吹き込まれるとき、あたかも命を持ったなにかのような、ひとつのリアリティが立ち上がってくる。それはそのキャラクターが固有の存在であるという証の魂(ゴースト)だ。いもしない架空の人物だというのに、絵や声や性格を通して、ぼくらにはなぜかそれが「そのキャラだ」ということが直観的にわかってしまう。ひとりのキャラにひとつの声が割り振られたときに立ち上がる強固なキャラ性。そのとき、声とキャラクターは不可分に結びつく。このとき、声優はキャラに肉体を縛られた存在となってしまうのかもしれない

 殺人予告をした犯人はハルヒの声をあてた声優、平野綾のファンだった。言うまでもないが、平野綾はハルヒ放映後に人気声優となって活動の幅を広げていた。ゴールデンタイムのバラエティ番組でみかけることも多くなり、そのなかで必然的に現実に生きている人間としての一面も見せるようになっていた。少数のファンがそれに戸惑っていたのはぼくも知っていた。あくまで想像だけれど、そのことが事件に関係があったのかもしれない。もしそうだとしても、自分の中でつくりあげたイメージを他人に押しつけてしまうのは一種の暴力だ。擁護するのは難しい。ぼくが気になったのは、ハルヒというキャラに声優を同一視させてしまうほどの力があったということなのか。それとも平野綾の声にハルヒを「キャラ」として立ち上げる力があったのだろうか、ということだ。声は身体だろうか。それとも身体とは別なのだろうか?
かつて、声はまぎれもなく身体から発するものであった。ならばヴォーカロイドは何と呼べば良いのだろう。一般的に、身体は現実に対する楔のように考えられているけれど、虚構の世界に耽溺している人間の身体感覚は限りなく薄い。ぼくらは虚構と現実のはざまに住んでいる。ちゃんと地に足つけて論理的に考えてみれば、ここが現実か虚構かなど判別がつくわけがない(決して天の邪鬼な発言ではない)。でもこんなのは千年前からみんなが考えていた時代遅れのグノーシス主義だ。グノーシス主義とはおおざっぱにいうとこういう考え方だ。

「この世界はひどいクソゲーで、本当の世界のぼくはいまごろヘッドセットつけて二階の部屋のなかで寝転がってニヤニヤしながらこのクソゲーをネタ半分に楽しんでおり、そんなぼくの隣の部屋では中学校に入ったばかりの妹(大人気アイドル)が仕事から帰ってきてエロゲをやっていて、一階ではどうみても18くらいにしかみえない巨乳の母親(血が繋がっていない)が晩ご飯を作っている。そろそろ隣の家の幼馴染み(ロシア帰り、元スペツナズのクールな殺し屋)がぼくを起こしに来てくれるはずだ。そう、本当の世界のぼくはとても幸せなのだ。しかしこのクソゲー、マジ終わる気配ない。クソゲーさんマジクソゲー」

映画マトリクスなんかでおなじみの世界観だけれど、グノーシス主義は、キリスト教発生と同じくらいの時期に存在したと言われる古代の宗教・思想の一つだ。グノーシス主義では我々の住むこの宇宙は邪悪な神の作った世界で真の神についての認識に到達することでこの宇宙から脱出可能だと説く。この退屈な世界は実は嘘で、本当はどこかでもっとトンデモなことが起きているはずである……という「消失」バージョンのハルヒの思考とどこか似ていないだろうか(消失でサティの「グノシエンヌ」が流れるのは偶然ではない)。古来からこうしたグノーシス的な物語というのは枚挙にいとまがない。そして、こうしたグノーシス的な世界への確信を深めることによって、虚構と現実の壁はいともたやすく崩れ去ってしまう。先の犯人の固有名への無頓着さ――自分をまるでキャラであるかのように、現実へと乱暴に放り出せてしまうことにそうしたグノーシス的な感覚を見ることは難しくない。

ぼくらは、いま、悪夢のような反宇宙にいるのだろうか。だとしてもきっとそれはぼくらには一生わからない。たとえグノーシス的な世界だとしても、ここ以外のどこかへ行けないぼくらはここで倫理を追究しなくてはならない。でも、その倫理をつきつめてストイックに生きることはニーチェの「超人」くらい困難だ。「超人」とは、人間を越えて「キャラ」になることへの欲求だ。だからこそぼくらはまるで「キャラ」のように振る舞う芸能人にあこがれる。だからと言ってコトはそう簡単ではない。小倉優子の「キャラがぶれているキャラ」というアクロバティックな論理。宇多田ヒカルの「人間活動」発言(いままで何者だったと!?)…これらから読みとれるのは肉体を持ちながらキャラでしかいられないことへのねじれた苦しみだ。
キャラとはひとつの呪いであるかもしれない。けれどそれを祝福に変えることもまた可能なはずである。
声優とは、キャラでありながら、ひとりの人間であるという、ふたつの矛盾した現実を同時に生きることが可能な存在であるとぼくは信じている。人でありながらキャラでもある、そんなふうに少し強くなったハルヒの声を聞くことをぼくは願ってやまない。

 

初出(ユリイカ2011年7月臨時増刊号 総特集=涼宮ハルヒのユリイカ! The girl greatly enlivens the criticism! 2011/6/14)

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翻訳小説とふたりのハウザー

U179 ナイフ投げ師

ミルハウザー『ナイフ投げ師』が白水Uブックスでちょっとばかしお求めやすくなって登場。うーん、ダウンサイジングのためにまた買うか……ということで、2008年に書いたミルハウザー関係の原稿「その1」を公開。今読み返すと浪漫主義と倦怠ってところは、のちに國分さんの『暇と退屈の倫理学』で指摘されているような感じで、けっこういいところをついてたような気がしなくもない。ちなみに海外では去年ミルハウザーの新刊が出ているらしい。
http://www.nytimes.com/2011/09/04/books/review/we-others-new-and-selected-stories-by-steven-millhauser-book-review.html?_r=1&pagewanted=all?src=tp

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「翻訳小説とふたりのハウザー」

この宇宙に存在するあらゆるすべての翻訳小説は、必ず私を不安にさせる。

文章がゴツゴツしていて、やたらと描写が緻密で、たとえばある人物が登場する際には服装や顔立ちや経歴、そして部屋の描写が仔細に何頁にもわたって行われ、無駄にシャレた会話(たいていシェイクスピアの引用だったり)をする――というようなものが、私が勝手に考える翻訳小説の姿で、とかく大変とっつきづらいものとして認識されていたが、それはそれでまあ、仕方なしという思いもあった。なぜなら、「そこにテーブルがあった」と書けば良いのに、テーブルの配置から材質から由来から値段からを延々と描写してしまう理由というのは、きっと日本以外の国は多民族国家であり「テーブル」だけでは、和風なのか、洋風なのか、イスラム風なのかがわからない。だからこそ翻訳小説では厳密な描写が求められるのだ――そう信じていた。当たり前だが、そのような私の考えが根本的に誤りであることははるか以前に認知され、今では概ね修正が完了している。翻訳小説のすべてが、ゴツゴツしてもいなければ厳密であるわけでもないし、シェイクスピアの引用で話をしているなどという、翻訳小説をナメているとしか思えないそんな思い込みは、もうない。だがしかし、未だに翻訳小説は私を不安にさせる。

その真の理由とは、それが【翻訳】であるという根本的なところにある。当たり前だが翻訳という行為は、どうやっても純粋な作品の二次加工にならざるを得ない。文学におけるこの加工は、音楽においてクラシックの生演奏をCDにするようなこととはわけが違う。何せ、ある国の言語が、まったく別の国の言語に変換されるのだ。音楽に例えるならピアノ演奏をギターで再現――くらいの差があるのでは? などと、素人の私などは思ってしまうわけで、そのあたりがひっかかって翻訳小説は原文で読まなくてはならない……という強固な思い込みに囚われた時期もあった。その考え自体はあながち間違いではないものの、私の頭と相談したところ、正直、絶対に無理だという答えが出た(かつて、イアン・マキューアンの短編集『最初の恋、最期の儀式』のペーパーバッグを購入し、読み比べようとして「こ、これは……翻訳が全部間違っているッ!」と驚愕したが、よく見ると、日本語版と英語版で作品の収録順が違っていただけだった……)。

前記のような翻訳小説に対する捻れた想いから、私の読書量は長年7:3の割合で国産本に偏っていたのだが、近年それが逆転しつつある。それはなぜか……良く分からぬが、おそらく妙な思い込みや、無駄な偏見から自由になったせいだと考える。とりもなおさず、そのことを一言で言うなれば「大人に近づいた」ということに尽きる。それを自覚したとき、私はなんとも言えない複雑な気分に襲われた。そして、この複雑な想いこそが、スティーヴン・ミルハウザーの作品に通底する【なにか】なのだと気づいた。

夜の姉妹団―とびきりの現代英米小説14篇 (朝日文庫)国産小説から翻訳小説へと読書人の興味が移行する自然なパターンとしては、村上春樹→レイモンド・カーヴァー→柴田元幸(今だと、古川日出男→スティーヴ・エリクソン→柴田元幸、か?)という黄金パターンが存在するが、私がミルハウザーと出会ったのは、まったくの偶然で、なんとなく手に取った『夜の姉妹団』というアンソロジーに入っている表題作を読む幸運に恵まれたためである。ミルハウザーという名を呟くたび、私の頭の中では七色の煙が立ちのぼるのだが、そのイメージの元となっているのは、幼少期に怪しげなオカルト雑誌で読んだ、謎の少年カスパー・【ハウザー】の神秘的なイメージのせいだということは疑う余地がない。一九世紀ドイツに突如として現れた言葉もなにも知らない少年(未来人であるとか、さる高貴な血筋の落胤であるとか言われているが、特技は暗闇の中でも目が見える……くらいで、割とショボい)と、このニューヨーク生まれのアメリカ作家は、【ハウザー】つながりで私の脳内の比較的近い位置に配置されている。『夜の姉妹団』は思春期の少女たちの秘密結社「夜の姉妹団」をめぐる話であるが、大人たちが彼女らを監視し、結社の正体を暴こうとする。だが一向にその実体がわからない……。結社の存在が大人たちの妄想なのか、果たして大人だから見えないのか、それがわからない。読んでいるとこの作品が、まるで大人と子供をはかるリトマス試験紙のように思えてくる。大人と子供、どちらの気持ちも理解しつつ、どちらに荷担すべきか……その読後感は、まさに自らの思春期がまだ終わり切っていないことを認識させらるものであった。国内で読めるミルハウザーの小説は決して多くはないので、すぐに読み尽くしたが、私は長編よりも、バリエーション豊富でお得な短篇集や中編集のほうが好みで、中でも『イン・ザ・ペニー・アーケード』の第一部「アウグスト・エッシェンブルク」を贔屓にしている。

イン・ザ・ペニー・アーケード (白水Uブックス―海外小説の誘惑)この作品は、時計職人の息子が自動人形に心を奪われたがために送る栄光と挫折の物語を描いた中編だが、その仔細な描写は、私が当初、翻訳小説に抱いていたマイナスイメージとはまったく逆のものであった。確かにミルハウザーを評して描写の執拗さを賛美する者は多いが、それよりも淀みなく流れる語り口に魅力を感じた。描写のひとつひとつが小さな歯車でありつつ、通して読めば自然に全体と融和し、すべてが有機的に違和なく繋がっていく……。やがて、それは作品のテーマである自動人形の歯車のイメージとかみ合い、最期には全体を統括する「ペニー・アーケード」のショウウィンドウのひとつになり、入れ子構造を現出させる。

私はこの中編を何度も再読したが、その度に新鮮な発見があった。たとえば、この中にハウゼンシュタインという男が出てくる。これはアウグストほど才能がないサリエリ的な立場の美青年で、明るくて頭が良く、饒舌で狡猾な世渡り上手である。初読でこの男が嫌いになった。終盤あたりで、自分のもとから去っていこうとするアウグストを、友情をダシにして引き留めようとする部分が、まるで女を騙す手練れのようでいやらしい。しかし、時間が経過して再読すると、ハウゼンシュタインは現実の厳しさを知ったリアリストであり、そのうえで芸術とアウグストを愛するという深みを持ち合わせているが、主人公アウグストはハウゼンシュタインの愛情に気づきすらしない世間知らずの器の小さい頑固な男――そんなふうに印象は変化した。先日も、風呂にはいって再読している折りに、ハウゼンシュタインがどういった口調で話すのかが気になり、多種多様なニュアンスで真似てみたのだが、実験の結果、シャアと花輪くんをかけあわせたものが最も近いのではないかという結論にたどり着いたがそんなことはどうでも良く、私はその時、ハウゼンシュタインとアウグストを透かして、作者を見た気がした。

エドウィン・マルハウス―あるアメリカ作家の生と死 大人になってしまった自分に対する諦念、子供時代への郷愁、芸術への情熱と敗北。それを通奏低音としながら、流れる主旋律は――天才と凡人、現実と幻想、子供と大人といった両極端な二項対立。だが、物語は普通の娯楽小説のように、衝突しながらやがて中庸へ到るというわかりやすい終幕には到らない。ミルハウザーは似通ったテーマを繰り返し変奏する作家だとよく言われるが、作品世界を覆うトーンはそれぞれかなり違う。同じ天才の最期にしても「アウグスト・エッシェンブルグ」の哀愁に比べると、「J・フランクリンペインの小さな王国」のラストは感動的だし、「幻影師、アイゼンハイム」は伝説化したという意味で幸せだ。これらの中でも、ミルハウザー自身がもっとも透けて見えるのが「アウグスト・エッシェンブルグ」である(とは言え、これは私の勝手な思い込みでもある。『エドウィン・マルハウス』における記録者のように、ミルハウザーに筆者自身を投影している可能性は否めない。でもいいのだ、読書に正解はない)。物語の最期、主人公のアウグストは挫折した現実を受け入れてなお立ち上がるが、その先行きは決して明るいものではない。かといってそれほど暗い運命を予感させるわけでもない、ただ当たり前に続く人生が明示される――この達観と、アウグストがハウゼンシュタインを評す“あきらかに退屈していた。才能よりも知性がはるかに上回る人間にありがちなように、心から退屈しきっていた“との言葉、どうもこれがミルハウザー自身のことを表しているような気がしてならない。退屈な日常を忘れるために小説を書いている彼の姿は、作品の登場人物たちの辿る運命と同じく平凡な日常に回帰してしまうことに抵抗しているように見える。心の奥には根深い敗北主義者が潜んでいるが、書くことに耽溺している間、ミルハウザーは輝いている。ゆえに終わりに近づけば近づくほど物語は悲哀の色を帯びるが、決して過剰な絶望には到らない。これは例えば、同じように人形に憑かれる男を描いたロマン主義的な作家でも、自ら命を絶ってしまったサーデグ・ヘダーヤトとは対称的である。ヘダーヤトの短編集『生き埋め』に所収されている「幕屋の人形」の主人公メヘルダードは、現実に背を向けて人形を愛す男だが、最終的に現実と向き合おうとしたがために悲惨な最期を迎える。メヘルダードが愛するのは人形の外面であるが、アウグストはその機械仕掛けの内面を愛する。両者とも、人形の正反対の部分にひかれながらも本質的な美に魅せられていることは共通している。美はどこかにイデア的な本質が存在している――かつてはそう信じられていたが、それはまやかしである。不可視ゆえにあると思ってしまうだけなのだ。これは人間の心理的陥穽と言えよう。

生埋め―ある狂人の手記より (文学の冒険) ロマンが現実の倦怠と絶望を忘れようとする一時の虚飾だとすれば、サーデグ・ヘダーヤトの死はその究極である。しかし、ミルハウザーは退屈しつつも生きている。ヘダーヤトは『生き埋め』において“誰もが死を怖れるが、僕は執拗に続く生が恐ろしい”と書いたが、ミルハウザーはこの恐怖を、輝いていた子供時代や、芸術、ゲーム、天才たちを夢想することによって回避し続ける。この根底にある小さな希望がどこから来るのか。それは、訳者が『イン・ザ・ペニー・アーケード』のあとがきでも引用している“大切なのは、ある日くすんだ緑のテントにいた自分の内部で何かがぱっと輝き、以来それがいまだに消えていないという事実”であり、ミルハウザーの空想展覧会ともいうべき『バーナム博物館』において”私たちは、何度もくり返しバーナム博物館へ戻ってゆく。私たちにわかっているのは、自分がそうせずにいられないということ、それだけ”であり“出入り口は新たな部屋へつながり、そこにはまた新たな出入り口があり、その向こうに遠い部屋、遠い出入り口、思いも寄らぬ発見がほの暗く見え隠れしている”という、無限に輝きを発掘する逞しさと、したたかさである。
たしかに、心に発見した輝きは消えてしまいがちなものだ。私が子供の頃に怪しげなオカルト雑誌で出会った謎の少年、カスパー・ハウザーの神秘は、もはや胸の奥でくすんでいる。しかし、ミルハウザーは耳元で囁く――輝きはいつでも取りもどせるし、発見できるものなのだと。
私は頭の片隅から、カウスパー・ハウザーが生前、丘の景色を見ながら漏らしたとされる言葉を掘り起こす。
“あの地下牢から出てこなければ良かった(……)あそこにいさえすれば、何も知る必要もなければ、何も感じる必要もなかった。もう子供ではないという苦しみ、そしてこんなに遅くなって世の中にやってきたという苦しみも、経験しないですんだろうに……”
この言葉が、ミルハウザーの作品と深く共鳴しているのは偶然だろうか。私の頭の中でいまや両者は、近い場所ではなく重なり合わんばかりに近接し、輝きはじめている。ミルハウザーの小さな囁きが、私以外の人には違う言葉に聞こえるとしても。輝きを発見できたなら、それは、言葉が違えども伝わる【なにか】があることを証明する。
そして私はまた発見する――大人になったからではなく、それを知ったから、私は安心して翻訳小説を読むことができるようになったのだと。

追記:輝きは発見できたが、それでも翻訳小説が不安だ。というような、私を上回る心配性の方には、世界中の翻訳者の粉骨砕身ぶりが窺える『世界は村上春樹をどう読むか』をお勧めする。これで駄目なら……あきらめよう。

ユリイカ2008年3月号 特集=新しい世界文学

(初出:ユリイカ2008年3月号 特集=新しい世界文学


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中上健次の向こうへ

今年も熊野大学が開催されます。
http://plaza.rakuten.co.jp/kumanodaigaku/
そんなわけで、過去に書いた中上健次についての原稿を再録しましょう。

▼ヤンキーレボリューション&オタクテロリズム2008 in my 俺

初めてアルバイトをしたのは中学生のときだった。
近所の植木屋の手伝いに志願し、夏の朝、トラックで海辺に運ばれ、日焼けか酒焼けかよくわからない色の顔をしている大人たちに混じって、ユンボが運んでくる土をシャベルで移動させ、炎天下の中、水の入ったポリタンクを何十回も運んで、海浜公園を作った。そのあと、高校を卒業して、いくつかアルバイトをかけもちしたが、ほとんどが肉体労働だった。別に志向がマッチョなわけではなく、80年代後半から90年代初頭は、田舎にはコンビニなんかほとんどない。仕事といえば選択の余地もなく肉体労働しかなかったのである。ドライブインのウェイターやパチンコ屋の仕事ができればいいほうで、ガソリンスタンド、工事現場のガードマン、配管の穴掘り、空調のない炎天下や、極寒の道ばたは、立っているだけで激しく消耗する。エアコンの効いた室内に座って仕事をする人間たちは、選ばれしエリートだ……そう感じていた。
環境が都市化されていくに従って、激しい肉体労働の需要は減少していく。それは釜が崎など、ドヤ街の状況を見ればあきらかだ。都市化される初期の建設現場において必要な労働力の供給先であるドヤ街は、いまやネットカフェによる全国のドヤ化と、ケータイによるフリーターの日雇い労働者化によって活気を失っている。
東京に来て驚いたのは、ここでは贅沢を言わなければ簡単に室内のルーティンワークが可能であるということだった。中上健次が東京に出てきて空港で荷物の積みおろし作業をしていたのは、環境による要請ではなく、マッチョな志向のせいだ。絶対(内実は過酷なのに、字面としてファンシーになってしまう「菓子パン工場」とかを選ばないところが……マッチョだ)。
中上健次の小説作法に関する講演をまとめた『現代小説の方法』において、中上は「小説を阻害するもの」について話している。
滞在先のペシャワールで、ガイドのアミンという青年が毎日、内戦に巻き込まれている父親の安否を確かめるために遠く離れたある場所まで行くという。これは単純に考えると電話一本で安否を確かめれば事足りる話であるが、それをしない。このアミンの行動に中上は現代において小説が孕む問題を見る。
簡単に説明すると「電話と車」というものがある現代においては「あ、オヤジどうなってんの?死んだ?」みたいな会話一行で終わったり、車で10分行って帰ってくるだけで「もいっかい寝るか」とか思って終わってしまうのだが、原始的な世界ではそうはいかない。行動を追うだけで文化的背景が見えたり、あるいはその路地が奇異なものであればあるほど文章にすればキラキラと輝き出す力を持っている。だがしかし、ニートやひきこもりがぎっしりつまった現代の物語空間にそのようなことは望めない。せいぜいコンビニで出た新しいジュースとか、カップ麺を描写したり、復刻版ビックリマンシールのスーパーゼウス様を描写するしかことでしかキラキラさせる方法はない。現代ではかように物語が産まれづらい。と、まあ非常に無茶苦茶だが要約すると中上の意見はそういうことだ(超訳してるから原文を読め)。
フランスでもてはやされていた詩人ランボーがアラブに行って感動したのは、アラブのような猥雑でプリミティヴな場所ではすべてが輝いていて、もはやいちいち修辞的にああだこうだいうのはつまらんと思ったのではないかと、そういうランボーに中上は感情移入するのだが、これはありがちなヨーロッパのオリエンタリズムへの眼差し――言い換えれば、都市生活者が田舎に憧れるみたいなものとあまり変わらない。
世の中が都市化=近代化、されていくに従って生活からどんどん身体性が剥奪されていく。初期中上健次の行動はそれに抗うかの如く、自ら身体性を獲得する方向へと動く、そして結果、ルーツである熊野を舞台にした路地へとたどり着いた。路地とは近代化から取り残された、いまだ身体性が残る場所のことでもある――と、いうふうに書くとなんだかそれだけで「マッチョで原始的な小説家――ケンジ・ナカガミ」みたいな紋切り型が通用しそうだが、そうはいかないのが中上のめんどくさいところで、講演が行われた同年に中上は『日輪の翼』を書いている。『日輪の翼』は、路地を追われた婆さんたちがトレーラーで旅に出る、という気が触れたような筋で、先に説明した、自分が「小説を細らせる」とした現代人の必需品「車」をメインに据えた初期の作品。さらに後期の作品『賛歌』とかになると、もうすごい。カタカナ文字が乱舞し、主人公が性のサイボーグという……なんだか、もう、どうせだったら左腕、サイコガンにしろよ、みたいな話になっている(SFではないが)。
この一見矛盾とも思える、発言と作品の乖離はどういうことか。
これは都市への敗北ではないかとも思えるのだが、反骨精神旺盛な中上のこと、そんなわけがない。サブカルチャーや近代的アイテム――都市的なるものを敢えて取り入れることによってそれを超えようとしたという見方が妥当だろう。これはヤンキー的な「あらゆるものが気に入らねえ!ぶっ壊してやる!」というノーフューチャー精神としてヘッドバンキングで賛同したいところだが、悲しいことに、後期の仕事を見ると、志半ばで倒れた感が否めない。
しかし失敗=無意味、という安易な虚無感に足を掬われてはならない。
中上がやりたかったことというのは、オタク+ヤンキー=サブカルチャーとリアリズムを接合する、のではなくて、あらゆるものすべてを物語という混沌の中に閉じこめることだったのである。彼にとっての物語というのは、リアリズムとかフィクションという概念を超えた、もっと強力なものだ。反物語を語ることによってロマンティシズムに陥った結果、反物語という物語に荷担してしまうとか、そういったメタ的な恐ろしさを持った物語こそが中上が物語と呼んだものである。
たとえば身近なものでは歴史がそれに近い。
歴史に正しさも間違いもない、ただ力の強い物語が勝った結果が歴史なのだ。事実はその裏付けとして存在する。決して、事実があったからそれが史実になるとは限らない。歴史を成立させるために、事実というひとつの要素があるにすぎない。生まれたときから歴史の上に配置されている我々は、物語から逃れられない。中上はその大きな物語=歴史=リアルに対抗するための、より大きな物語=小説=フィクションを志向したのではないか。それは近代化した人間を物語の中の住人へと引き戻す、ある意味壮大な物語治療だった。そこは自らの出自からも自由になれる場所だ。老婆もトレーラーもサイボーグも天皇も宇宙人も外人も部落も同じになる同一平面、そのような危険な場所こそが中上の求めた物語だ。
しかし、何度も言うがそれは失敗に終わった。
サブカルチャーを摂取して育ってきた現代の若手作家たち(in my self)はその失敗のあとに生きている。
我々が後期中上の敗北から知ることができるのは、世界から路地というものがなくなった結果、すべてが都市小説になっていくという事実である。脱身体化(楽して生きたい)の欲望には勝てない。そして、都市化の果てにあるのは人の消失だ。そういう意味では「構造だけの小説」や「おもしろいだけの小説」を紡ぐ作家たちのほうが、一番遠そうに見えて実は中上以後を忠実に生きている。
しかし、それでいいのか?
中上が生きていたら間違いなくこう叫ぶだろう「ノーフューチャーァァ!!!」
そう、確かにそれでは無未来。No future。それではだめなのだ。ラノベもエロゲも面白いけれどもっと面白くなるはずなのだ。敢えて言おう。中上の描いた未来の絵図だとか、よくわからない解説だとか、この文章だとか、マッピングの中に収めてしまえるようなことは一切合切含めてくだらぬ。今すぐ唾棄してガソリンをぶっかけて燃やしてしまえ。作家など喰い殺してしまう獰猛な物語こそを、中上は求めていたのだ。世界都市(エクメノポリス)と路地裏(バックストリート)、拮抗するその狭間から「エクストリーム」が炸裂し、激情が軋む音と共に、詩が叫び出す。秩序などという小賢しいたわごとを完膚無きまでに破壊し、現実を混沌と混乱に陥れる猛毒こそが物語ソウル。
我々は、オタクだとかヤンキーだとか黒人だとか宇宙人だとかを超えて、中上が失敗しても俺達は失敗しないという無根拠な革命精神だけは捨ててはならない。イエス・フューチャー。我らが取るべき手段は、もはやベッドの上からの革命か、路上からの革命しかあるまい。このアフター中上の時代、都市と路地というキーワードから文化をこう大別してみよう。
・路地 ヤンキー・アウトロー文化(不良)「俺が動けば道ができる派」大人。身体と体験、他者。外向的能力。
・都市 オタク・ニートロー文化(秀才)「働いたら負けだと思っている派」子供。知識と技術、自己。内向的な能力。
得手不得手があるだけで両者に優劣はない。
中上が語った近代化における文学成立の難しさ――「うごかねえからドラマおきねえ」(スマン、田山花袋)にあてはめると、確実に今はオタク・ニートローの時代だが、中上の心配とはよそに、そこでは近代化しても物語が成立している。ヤンキーでありながらオタク文化を取り入れようとした中上は、さすがにチャレンジャーだ。が、しかし、小説を書くという時点で似非ヤンキーだった。中上はヤンキー的だが、そのヤンキー臭さは文体から来るものであって、物語る力はヤンキー的なものではない。中上の文体をして「筋肉で書いたような」という印象を受けることがあるが、それをもってしてヤンキー的というには早計すぎる。ヤンキー的な文章には身体感覚のような修辞はない、そこにはただのリアリティしかない。だからこそ、それを突き詰めたヤンキー文化であるケータイ小説が神話的なのだ。徹底的に肉体で書くということを突き詰めると、過剰な修飾やらが欠落して、神話的になっていくのだ。文体が無意味になるほどの体験こそ、身体をもってして書くことの究極であろう。本物のアウトローは文盲でなくてはならないし、だいたい文字を書くなどという面倒くさいことはやらないのだ。つまり、文壇とか小説の世界の「無頼」とか「アウトロー」というのはオールフェイク、全無しである。
小説を書くヤンキー=フェイク!(ポエムはOKだ)。だが、ところがここのところケイタイの登場によってその構図が崩れかけている。
ちょっと検索してみれば、リアルタイムで裏社会の底辺で働く人たちが、匿名でケータイ小説や日記を書いていているし、その内容はつたないものだとしても、あまり読んだことがない種類のものである。それこそ現代の路地裏感、ストリートの息吹を感じさせる。さらに不良文化とHIPHOP文化の近接によって、リリックで心情を綴る、という表現方法も確立されている。鉛筆で書くのは難しくとも、ケータイの予測変換によって事実と心情だけを紡ぐならそう難しいことではなくなっている。修辞抜きの事実だけで強度のある物語は、原型的物語(民話とか神話)に近くなっていく。神話化していくということは、とりもなおさず中上の希求した剥き出しの物語の根源に近づいているということである。
これから先、携帯というデバイスの普及によって、中上が体現できなかった新たな物語が産まれるかも知れない。それの読者と書き手は、いままで文学に興味がなかった層の人々であり、そこにおいてオタクとヤンキー、そしてすべての人類が共存する文学の可能性が開かれる。どんな人でも、一作は必ず小説を書くことができる。それは「自分の人生」である――携帯小説というのはその「一生に一回」の小説を、いつどんな書き方で書いてもいいんだという、新しい私小説運動という側面がある。だが、一生に一回やれたなら何度でもやれるはずだ。誰でもいい。動機など不要。そのケータイで今すぐ小説を書くのだ。
革命はそこから起こせ。


初出:ユリイカ

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異形の愛~攻殻機動隊S.A.Cと萌え~

▼祝!
攻殻機動隊3D
公開記念として、過去に書いた「タチコマ萌え」にまつわる記事を掲載。萌え絵についての解説は、「情念定型」による説明のほうが説得力あるかもしれない。たとえば、絵画にまつわるこの対談などもあわせて読むとすごく面白いかもしれない。まあそんなわけでこれを読めばあなたのタチコマへの視線が変わるブヒ! タチコマに萌えるんだブヒ!

▼〈とにかく「攻殻機動隊 スタンドアローンコンプレックス」(以下SAC)の萌えっぷりは凄かった。のっけから実はバトーに腹違いの妹が12人いて何の脈絡もなく同居生活が始まるとか、二子多摩川に暮らすトグサの家で生まれた双子が超探偵の助手を始めるとか、過って脳核を入れたままの擬態を廃品回収に出された少佐が記憶を失い、モテない浪人生に拾われて六畳一間でツンデレぶりを発揮しまくるとか、もうとにかく凄かった。I.GがA.I.Cになってしまったのかと思った。押井守のビューティフルドリーマーがオタク的なユートピアを描いたとすれば、ある意味この作品もそれを継承していると言えよう……〉

などといった酷い記事が『ニュータイプ』とか『アニメージュ』等のアニメ誌に掲載されることなど絶対にない。なぜなら当然そんな内容ではないからだ。SACは前文のようなことが日常的に起きている萌えアニメとは一線を画している。あるいは、日本アニメにかぶれた、外人ならばこう言うかも知れない。「そういう萌え要素が一切ないのがコーカクキドウタイなのだ。やはりJapanimationはFantasticでGreatだ」と……。

攻殻機動隊が押井守作品として認知されて以来、攻殻機動隊はジャパニメーションという幻想の十字架を背負わされてきた。ポリティカルな設定や細かいディティールだけが抽出され、原作にあった影の部分とも言うべき、80年代美少女絵要素はスポイルされてしまっている。それゆえに硬派たりえているのかも知れないが、高尚になりすぎて何か本質的なものを見落としているような気がしてならない。
攻殻シリーズの一つであるSACもまた同じように高尚なアニメなのだろうか?
軟派な萌えが存在していないアニメなのだろうか?
そうではない。SACには押井の攻殻にない「萌え」がちゃんと存在している。

萌えという言葉に慣れ親しんだオタクにはいまさら感があるが、「萌えビジネス」は、いまや良くも悪くも今や日本にとっての一大コンテンツ産業になっている……らしい。大の大人が小さい子供にハァハァする姿を見るのは正直キツいが、運良くSACに存在している萌えキャラは美少女ではない。というか人間の姿すらしていない。このSACにおける萌えキャラについて考えることは、現在の「萌え」をとりまく状況を考えることとも繋がってくるのだが、その前にまず萌えというものについてざっと理解しよう。

そもそも萌えとは一体なんだろう?

簡単に言えば「架空の存在に対する恋心」だ。巷には「萌えがわからない……」と悩む方々もおられるそうだが悩む必要などない。そういう団塊世代のお父様は「萌え=恋、ラヴ、胸キュン」と思っていただいてかまわない。恋愛が成就する可能性が限りなくゼロに低いということを自覚していれば、キャバクラの姉ちゃんに対する愛情は「キャバ嬢萌え」だ。たぶん。
そしてオタクとは――歪んだ骨格、下ぶくれの頬、無駄に巨大な瞳(図1 ことぶきつかさ)――一般的尺度ではよく理解できない変わった女性に魅かれる方々のことであると思えば良いだろう(相当乱暴だが)。そういった妙な方々に特化した、カラフルかつ異形の絵(萌え絵)が甲高い声を発しながらぬるぬると動くアニメーション。それが日本における「萌えアニメ」である。

その認識を踏まえたうえでSACを見ると、少なくとも「萌えアニメ」ではないことに気づく。女性キャラ率が低いから仕方ない話ではあるが。そもそもSACの絵はいわゆる一目見て「はにゃ~」となるぶっ壊れた「萌え絵」ではなく、わりとリアルな絵なのである。アニメの絵をリアルというのもおかしいが、それは一般人の発想だ。素人でもアニメを週に10本も見ていればその差異がだんだんと分かってくるだろう。そのあたりは各々の努力に任せる。

現在のオタク市場(アニメ、ゲーム、同人誌を含む)における「萌え絵」(なんだか浮世絵みたいですね)の流れは、かなり多岐に渡るが、ここでは話を簡単にするためにめちゃめちゃ大まかに分けて二つに分類する。すなわち19世紀のフランス絵画風に言うならば、新古典主義とロマン主義である。難しく聞こえるが分類は簡単。

新古典主義=現実と連続性がある。デフォルメされても、顔や身体の配置バランスに整合性がある。要するに画力のある絵。
ロマン主義=現実から乖離している。気分とか感覚重視で、デフォルメに整合性ない。要するに画力のない絵。
あくまでこれは名前を借りているだけで、本来の新古典主義とロマン主義とは関係ないのだが、あえて強引に見つけようとするならば……オールドマスターをリスペクトし、その流れを継ごうとしたアングル(Jean Auguste Dominique Ingres 1780~1867)のような新古典的資質は、藤子不二雄(Fujio Fujiko 1952~1988)のドラえもんの流れを継ぐケロロ軍曹を描いた吉崎観音(Mine Yoshizaki 1989~)に。また、激しい感情表現を前面に押し出したドラクロワ(Ferdinand Victor Eug【eに’】ne Delacroix 1798~1863)のようなロマン主義的資質は、愛くるしい大きな瞳を過剰デフォルメした樋上いたる(Itaru Hinoue ?~)の画風にそれぞれ通じる……のかも知れない。
整合性から言えばもちろん新古典主義のほうが絵的には正しい。そして一般的には美しく見える……が、オタク世界ではなぜか整合性のないロマン主義の絵が溢れている。こっちは正直、絵の整合性は無きに等しい、デッサン力もあるとは言えない。それ故に普通の人の目には奇妙に映る。当たり前である。間違った絵なのだから。
だが「萌え絵」の世界が特殊なのは、新古典主義もロマン主義も、同じように消費されているという点だろう。客観的に見れば二分できるこの分類だが、内側にそんな分類ははなく、これらは同じ次元で消費されている。
なぜいまこのようなロマン主義絵が溢れているるのか? それをただの教養の無さや、センスや才能の無さと言ってしまうのは簡単であるが、それでは何も改善されないし話が前に進まない。ロマン主義誕生のプロセスを考えてみようではないか。

日本において子供たちが最初に出会う絵はアニメーションであることが多い。オタクたちはほとんどの場合、これを模写することで絵を学ぶ。これを真似て絵を描き始めるとどういうことが起きるか? デフォルメされたアニメ絵を模写しきる能力や絵の本質を読みとるセンスがあれば良い、だが通常はそう上手くは行かない。デフォルメされたアニメ絵をさらにデフォルメするという……つまりコピーが繰り返されることになる。コピーを繰り返せばもちろん情報は劣化していく。結論から言うと、このように伝言ゲームが変質していくように伝わった結果生まれた絵というのが巷に溢れるロマン主義の絵だということになる。

新古典主義だろうがロマン主義だろうがアニメっぽい絵というだけでも世間では風当たりが強いのに、さらに壊れているロマン主義はヘレンケラー並みの多重苦である。このようなロマン主義の絵はどれほどCGを使った塗りが上手く見えようとも、強烈な萌え要素があろうとも、本来は認められない。音程のずれた音楽が不愉快なのと同じだ。しかしながら、音楽にノイズというジャンルがあるように、暴走族が竹槍マフラーやロケットカウルを格好良いと思うのと同じように、どんな妙なものもそれを突き詰めればそこに様式美が生まれる。
一般の方々が不可解に思えるような絵にオタクが萌える理由がおわかりだろうか。

つまりまとめると、アニメの絵とは本来現実を簡略化したデフォルメ絵……であるのに、そこを理解せずに、あるときからデフォルメをただの記号と見なしてかわいい記号だけを寄せ集めて書く傾向が現れてきた。その結果、整合性を失ったフリーキーな絵が生まれ、それが様式美として機能してしまったのが現在のロマン主義シーン形成のきっかけだと言える。

ではこの混乱した奇形的シーンの中で彼らは絵の善し悪しをどう判断しているのか? そこで「萌え」の登場だ。これを数値化して基準を見いだすことは困難だが、あえて魂と言い切ってしまえば話は早い。だから言い切る。オタクは「心眼」(っていうか脊髄反射)で絵を見ているのだ。わかりにくければ「フィーリング」と言えばいいだろうか。そういう抽象的な感覚で彼らは常人には感じがたい「萌え」を感じているのである。考えているのはない、まるでブルース・リーのように「感じて」いるのだ(とかって言うと東洋的神秘を感じませんか)。

萌え絵の話はこのへんにしておこう。きりがない。そろそろSACにおける「萌えキャラ」の話に戻ろう。

単刀直入に言うが、このアニメにおける「萌えキャラ」は思考戦車であるタチコマだ。SACを見て驚いた部分は、CGでも、少佐のコスチュームでも、オペレーターのポニーテールでもない。タチコマが萌キャラっぽい声でしゃべり、そしてやけに人間的な動きをすることだった。明らかに萌える……美少女どころか生き物ですらないこのメカにあっさりやられてしまうことが衝撃的だった。

しかしこれは特殊な感情でもなんでもない。何も難しくはない。設定資料や動いていないものを見るよりも、普通にアニメを見ていただきたい。かわいいと思うはずだ。アニメ声と子供のような動き、従順なその態度はペットや幼女を思わせる。スタッフたちが攻殻世界で唯一のマスコットキャラクターにかわいらしい要素を加えようとしたのは確かだろう(ちなみに押井版の攻殻では、この役割を犬に担わそうとしていた。多分)。

ここで先程の「萌え絵」に関する話を思い出して欲しい。ロマン主義の絵とは、かわいい記号の集積が変質してフリーキーになってしまったものであるという話であった。自然主義的絵画で構成されたSACの世界で、最も奇形的な姿を与えられたタチコマと三次元のデフォルメであった二次元絵が奇形化したロマン主義絵。この二つの状況は重なる。
「萌え」とはオタクたちは気づいていないが、一般の目から見るとフリーキーなものに対する愛情と言える。だとすれば――そこに自覚的になるならばタチコマ萌えは圧倒的に正しいということになる。しかも性欲などではない分、ある意味「アガペー的萌え」と言える。これは保健体育の教科書に載っているようなピュアな愛である。つまりタチコマ萌えは小学生にも優しい健全な萌えなのである。教育委員会に推薦しよう。

このような状況を踏まえてみるとSACは、ちゃんと本質を理解しつつ、その上で多くの人に理解できるような論理的な萌え回路を用意していることが分かる。この点でもSACは素晴らしい仕事をしている。少なくとも(愛憎半ばであるが)万人受けしない妙な和製萌え萌えアニメやら、偉い海外の展覧会で絵を紹介するより、よほど日本における萌えを理解させるのには最適ではないだろうか。
重ねて言うが要するにタチコマに萌えるのは変なことじゃなくて、正しすぎるくらいに正しい。原作の80年代的美少女絵の部分は今の言葉で言い換えると明らかに「萌え」の要素だった。SACはそれを殺さずにバランス良く、批評的に処理することが出来ている。たぶん半分くらいたまたまだと思うが、その偶然がとても面白い。
まだ「萌え」という言葉がなかった時代、自分が攻殻にやられたのは緻密に描き込まれたメカやカオティックな背景、複雑な物語に惹かれたからだと思っていた。けれど思い出してみるとそうではなかった。
本当は登場人物の女の子がかわいくて仕方なかっただけだ。
自分がなけなしの小遣いを使い片田舎のアニメイトで青土社の『攻殻機動隊』を買った理由は、話が面白いからでもメカがかっこいいからでもなんでもなかった。そこに書かれた女の子が好きだっただけである(すいません士郎先生)。
大人になって攻殻機動隊を読み返すと、より深い理解をすることができ、また違った角度で楽しめる。だが絵に萌えることは出来なかった。あるのは『きまぐれオレンジロード』を再読したときと同じ、ノスタルジーだけだった。
SACは士郎正宗の攻殻と押井守の攻殻を踏襲しつつ、そこに新しい魂を生み出すことに成功した希有な作品だ。
その成功は、並列化の果てに個性を手に入れたタチコマの姿とだぶってみえる。


初出:ユリイカ

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