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【書評】「魔法使いの弟子の囁き」

U179 ナイフ投げ師

ミルハウザー関係の文章、その2。これは「すばる」に載ったそのものズバリの『ナイフ投げ師』書評です。ぜひみなさま買いましょう。てか、ミルハウザーは内向的で暗くてファンタスティックで非常に良いので、ぼくと波長があう人ならきっと好きだと思います。

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「魔法使いの弟子の囁き」

ウンベルト・エーコは『エーコの文学講義』の第一講目において「語りの速度」について述べている。内容を要約すればこうだ――速く語れば多少の無茶は許される! 桃の中から赤ん坊が飛び出す奇怪な物語でも、さっさと主人公を鬼退治に出かけさせれば聞き手には疑問を持たれない。逆に細かく解説するほどボロが出る。この「速度」の問題は小説において非常に重要である。今日で言うなれば携帯小説が最速で、ロシア古典文学あたりが遅いといった具合だが、早ければ面白いわけではないし、遅ければ重厚なわけでもない。前者は薄っぺらいという批判に晒され、後者は最後まで読まれないというリスクが生ずる。時に速く、時に緩やかに、速度さえ忘れさせてくれる魔法のような語りこそが理想ではなかろうか? そういう物語を読みたくないだろうか? あなたが首肯したところで、すかさず私が差し出すのはスティーブン・ミルハウザー『ナイフ投げ師』である。地味なタイトルと「そのままやん」とツッコミたくなる装画(男がナイフを投げている)に首をひねるやも知れぬが、これこそ、あなたが求めてやまぬ魔術的な語りに満ちた書物。多忙な方も心配ご無用。12の短篇で構成されているゆえ、どれから読んでも良いし、すぐ読める。試しに湯船に浸かりながら気楽に読んでいただくとしよう。頁を開くとまずは表紙の男「ナイフ投げ師」が華麗に現れ、圧倒的な技を披露する。その至高の芸に圧倒されているうちに物語は終わり、あなたは熱に浮かされたように次の「ある訪問」を読み始め、登場する友人の妻の姿に度胆を抜かれ、子供たちの怪しげな秘密をめぐる「夜の姉妹団」にさしかかる頃、頁をめくる手はもう止まらない。間男が味わう悪夢「出口」。口直しは「空飛ぶ絨毯」楽しくも儚い夏休みの想い出。続く「新自動人形劇場」のからくり人形に魅了されるあなたの瞳はサーカスを見る子供のようだ。ドビュッシーのメロディの如き「月の光」の読後、酩酊した足で歩く百貨店「協会の夢」で迷子になってもご安心を。「気球飛行、一八七〇年」が冒頭の一行で空に舞い上がられせてくれる。あなたはふと気になる。いい加減のぼせても良い頃だ……気づくとそこは湯船の中ではない。どこなのだ?麻薬のような遊園地「パラダイスパーク」を通り抜け、謎の奇人の演説「カスパー・ハウザーは語る」その声に耳をかたむけよう。ここがどこか?そんなこと忘れれば良い。カッパドキアの遺跡の如き地下通路「私たちの町の地下室の下」を読み終わる頃、あなたはもうミルハウザーの世界で溺れ死んでいる。

すばる 2008年 04月号 [雑誌]
(初出:すばる 2008年 04月号

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翻訳小説とふたりのハウザー

U179 ナイフ投げ師

ミルハウザー『ナイフ投げ師』が白水Uブックスでちょっとばかしお求めやすくなって登場。うーん、ダウンサイジングのためにまた買うか……ということで、2008年に書いたミルハウザー関係の原稿「その1」を公開。今読み返すと浪漫主義と倦怠ってところは、のちに國分さんの『暇と退屈の倫理学』で指摘されているような感じで、けっこういいところをついてたような気がしなくもない。ちなみに海外では去年ミルハウザーの新刊が出ているらしい。
http://www.nytimes.com/2011/09/04/books/review/we-others-new-and-selected-stories-by-steven-millhauser-book-review.html?_r=1&pagewanted=all?src=tp

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「翻訳小説とふたりのハウザー」

この宇宙に存在するあらゆるすべての翻訳小説は、必ず私を不安にさせる。

文章がゴツゴツしていて、やたらと描写が緻密で、たとえばある人物が登場する際には服装や顔立ちや経歴、そして部屋の描写が仔細に何頁にもわたって行われ、無駄にシャレた会話(たいていシェイクスピアの引用だったり)をする――というようなものが、私が勝手に考える翻訳小説の姿で、とかく大変とっつきづらいものとして認識されていたが、それはそれでまあ、仕方なしという思いもあった。なぜなら、「そこにテーブルがあった」と書けば良いのに、テーブルの配置から材質から由来から値段からを延々と描写してしまう理由というのは、きっと日本以外の国は多民族国家であり「テーブル」だけでは、和風なのか、洋風なのか、イスラム風なのかがわからない。だからこそ翻訳小説では厳密な描写が求められるのだ――そう信じていた。当たり前だが、そのような私の考えが根本的に誤りであることははるか以前に認知され、今では概ね修正が完了している。翻訳小説のすべてが、ゴツゴツしてもいなければ厳密であるわけでもないし、シェイクスピアの引用で話をしているなどという、翻訳小説をナメているとしか思えないそんな思い込みは、もうない。だがしかし、未だに翻訳小説は私を不安にさせる。

その真の理由とは、それが【翻訳】であるという根本的なところにある。当たり前だが翻訳という行為は、どうやっても純粋な作品の二次加工にならざるを得ない。文学におけるこの加工は、音楽においてクラシックの生演奏をCDにするようなこととはわけが違う。何せ、ある国の言語が、まったく別の国の言語に変換されるのだ。音楽に例えるならピアノ演奏をギターで再現――くらいの差があるのでは? などと、素人の私などは思ってしまうわけで、そのあたりがひっかかって翻訳小説は原文で読まなくてはならない……という強固な思い込みに囚われた時期もあった。その考え自体はあながち間違いではないものの、私の頭と相談したところ、正直、絶対に無理だという答えが出た(かつて、イアン・マキューアンの短編集『最初の恋、最期の儀式』のペーパーバッグを購入し、読み比べようとして「こ、これは……翻訳が全部間違っているッ!」と驚愕したが、よく見ると、日本語版と英語版で作品の収録順が違っていただけだった……)。

前記のような翻訳小説に対する捻れた想いから、私の読書量は長年7:3の割合で国産本に偏っていたのだが、近年それが逆転しつつある。それはなぜか……良く分からぬが、おそらく妙な思い込みや、無駄な偏見から自由になったせいだと考える。とりもなおさず、そのことを一言で言うなれば「大人に近づいた」ということに尽きる。それを自覚したとき、私はなんとも言えない複雑な気分に襲われた。そして、この複雑な想いこそが、スティーヴン・ミルハウザーの作品に通底する【なにか】なのだと気づいた。

夜の姉妹団―とびきりの現代英米小説14篇 (朝日文庫)国産小説から翻訳小説へと読書人の興味が移行する自然なパターンとしては、村上春樹→レイモンド・カーヴァー→柴田元幸(今だと、古川日出男→スティーヴ・エリクソン→柴田元幸、か?)という黄金パターンが存在するが、私がミルハウザーと出会ったのは、まったくの偶然で、なんとなく手に取った『夜の姉妹団』というアンソロジーに入っている表題作を読む幸運に恵まれたためである。ミルハウザーという名を呟くたび、私の頭の中では七色の煙が立ちのぼるのだが、そのイメージの元となっているのは、幼少期に怪しげなオカルト雑誌で読んだ、謎の少年カスパー・【ハウザー】の神秘的なイメージのせいだということは疑う余地がない。一九世紀ドイツに突如として現れた言葉もなにも知らない少年(未来人であるとか、さる高貴な血筋の落胤であるとか言われているが、特技は暗闇の中でも目が見える……くらいで、割とショボい)と、このニューヨーク生まれのアメリカ作家は、【ハウザー】つながりで私の脳内の比較的近い位置に配置されている。『夜の姉妹団』は思春期の少女たちの秘密結社「夜の姉妹団」をめぐる話であるが、大人たちが彼女らを監視し、結社の正体を暴こうとする。だが一向にその実体がわからない……。結社の存在が大人たちの妄想なのか、果たして大人だから見えないのか、それがわからない。読んでいるとこの作品が、まるで大人と子供をはかるリトマス試験紙のように思えてくる。大人と子供、どちらの気持ちも理解しつつ、どちらに荷担すべきか……その読後感は、まさに自らの思春期がまだ終わり切っていないことを認識させらるものであった。国内で読めるミルハウザーの小説は決して多くはないので、すぐに読み尽くしたが、私は長編よりも、バリエーション豊富でお得な短篇集や中編集のほうが好みで、中でも『イン・ザ・ペニー・アーケード』の第一部「アウグスト・エッシェンブルク」を贔屓にしている。

イン・ザ・ペニー・アーケード (白水Uブックス―海外小説の誘惑)この作品は、時計職人の息子が自動人形に心を奪われたがために送る栄光と挫折の物語を描いた中編だが、その仔細な描写は、私が当初、翻訳小説に抱いていたマイナスイメージとはまったく逆のものであった。確かにミルハウザーを評して描写の執拗さを賛美する者は多いが、それよりも淀みなく流れる語り口に魅力を感じた。描写のひとつひとつが小さな歯車でありつつ、通して読めば自然に全体と融和し、すべてが有機的に違和なく繋がっていく……。やがて、それは作品のテーマである自動人形の歯車のイメージとかみ合い、最期には全体を統括する「ペニー・アーケード」のショウウィンドウのひとつになり、入れ子構造を現出させる。

私はこの中編を何度も再読したが、その度に新鮮な発見があった。たとえば、この中にハウゼンシュタインという男が出てくる。これはアウグストほど才能がないサリエリ的な立場の美青年で、明るくて頭が良く、饒舌で狡猾な世渡り上手である。初読でこの男が嫌いになった。終盤あたりで、自分のもとから去っていこうとするアウグストを、友情をダシにして引き留めようとする部分が、まるで女を騙す手練れのようでいやらしい。しかし、時間が経過して再読すると、ハウゼンシュタインは現実の厳しさを知ったリアリストであり、そのうえで芸術とアウグストを愛するという深みを持ち合わせているが、主人公アウグストはハウゼンシュタインの愛情に気づきすらしない世間知らずの器の小さい頑固な男――そんなふうに印象は変化した。先日も、風呂にはいって再読している折りに、ハウゼンシュタインがどういった口調で話すのかが気になり、多種多様なニュアンスで真似てみたのだが、実験の結果、シャアと花輪くんをかけあわせたものが最も近いのではないかという結論にたどり着いたがそんなことはどうでも良く、私はその時、ハウゼンシュタインとアウグストを透かして、作者を見た気がした。

エドウィン・マルハウス―あるアメリカ作家の生と死 大人になってしまった自分に対する諦念、子供時代への郷愁、芸術への情熱と敗北。それを通奏低音としながら、流れる主旋律は――天才と凡人、現実と幻想、子供と大人といった両極端な二項対立。だが、物語は普通の娯楽小説のように、衝突しながらやがて中庸へ到るというわかりやすい終幕には到らない。ミルハウザーは似通ったテーマを繰り返し変奏する作家だとよく言われるが、作品世界を覆うトーンはそれぞれかなり違う。同じ天才の最期にしても「アウグスト・エッシェンブルグ」の哀愁に比べると、「J・フランクリンペインの小さな王国」のラストは感動的だし、「幻影師、アイゼンハイム」は伝説化したという意味で幸せだ。これらの中でも、ミルハウザー自身がもっとも透けて見えるのが「アウグスト・エッシェンブルグ」である(とは言え、これは私の勝手な思い込みでもある。『エドウィン・マルハウス』における記録者のように、ミルハウザーに筆者自身を投影している可能性は否めない。でもいいのだ、読書に正解はない)。物語の最期、主人公のアウグストは挫折した現実を受け入れてなお立ち上がるが、その先行きは決して明るいものではない。かといってそれほど暗い運命を予感させるわけでもない、ただ当たり前に続く人生が明示される――この達観と、アウグストがハウゼンシュタインを評す“あきらかに退屈していた。才能よりも知性がはるかに上回る人間にありがちなように、心から退屈しきっていた“との言葉、どうもこれがミルハウザー自身のことを表しているような気がしてならない。退屈な日常を忘れるために小説を書いている彼の姿は、作品の登場人物たちの辿る運命と同じく平凡な日常に回帰してしまうことに抵抗しているように見える。心の奥には根深い敗北主義者が潜んでいるが、書くことに耽溺している間、ミルハウザーは輝いている。ゆえに終わりに近づけば近づくほど物語は悲哀の色を帯びるが、決して過剰な絶望には到らない。これは例えば、同じように人形に憑かれる男を描いたロマン主義的な作家でも、自ら命を絶ってしまったサーデグ・ヘダーヤトとは対称的である。ヘダーヤトの短編集『生き埋め』に所収されている「幕屋の人形」の主人公メヘルダードは、現実に背を向けて人形を愛す男だが、最終的に現実と向き合おうとしたがために悲惨な最期を迎える。メヘルダードが愛するのは人形の外面であるが、アウグストはその機械仕掛けの内面を愛する。両者とも、人形の正反対の部分にひかれながらも本質的な美に魅せられていることは共通している。美はどこかにイデア的な本質が存在している――かつてはそう信じられていたが、それはまやかしである。不可視ゆえにあると思ってしまうだけなのだ。これは人間の心理的陥穽と言えよう。

生埋め―ある狂人の手記より (文学の冒険) ロマンが現実の倦怠と絶望を忘れようとする一時の虚飾だとすれば、サーデグ・ヘダーヤトの死はその究極である。しかし、ミルハウザーは退屈しつつも生きている。ヘダーヤトは『生き埋め』において“誰もが死を怖れるが、僕は執拗に続く生が恐ろしい”と書いたが、ミルハウザーはこの恐怖を、輝いていた子供時代や、芸術、ゲーム、天才たちを夢想することによって回避し続ける。この根底にある小さな希望がどこから来るのか。それは、訳者が『イン・ザ・ペニー・アーケード』のあとがきでも引用している“大切なのは、ある日くすんだ緑のテントにいた自分の内部で何かがぱっと輝き、以来それがいまだに消えていないという事実”であり、ミルハウザーの空想展覧会ともいうべき『バーナム博物館』において”私たちは、何度もくり返しバーナム博物館へ戻ってゆく。私たちにわかっているのは、自分がそうせずにいられないということ、それだけ”であり“出入り口は新たな部屋へつながり、そこにはまた新たな出入り口があり、その向こうに遠い部屋、遠い出入り口、思いも寄らぬ発見がほの暗く見え隠れしている”という、無限に輝きを発掘する逞しさと、したたかさである。
たしかに、心に発見した輝きは消えてしまいがちなものだ。私が子供の頃に怪しげなオカルト雑誌で出会った謎の少年、カスパー・ハウザーの神秘は、もはや胸の奥でくすんでいる。しかし、ミルハウザーは耳元で囁く――輝きはいつでも取りもどせるし、発見できるものなのだと。
私は頭の片隅から、カウスパー・ハウザーが生前、丘の景色を見ながら漏らしたとされる言葉を掘り起こす。
“あの地下牢から出てこなければ良かった(……)あそこにいさえすれば、何も知る必要もなければ、何も感じる必要もなかった。もう子供ではないという苦しみ、そしてこんなに遅くなって世の中にやってきたという苦しみも、経験しないですんだろうに……”
この言葉が、ミルハウザーの作品と深く共鳴しているのは偶然だろうか。私の頭の中でいまや両者は、近い場所ではなく重なり合わんばかりに近接し、輝きはじめている。ミルハウザーの小さな囁きが、私以外の人には違う言葉に聞こえるとしても。輝きを発見できたなら、それは、言葉が違えども伝わる【なにか】があることを証明する。
そして私はまた発見する――大人になったからではなく、それを知ったから、私は安心して翻訳小説を読むことができるようになったのだと。

追記:輝きは発見できたが、それでも翻訳小説が不安だ。というような、私を上回る心配性の方には、世界中の翻訳者の粉骨砕身ぶりが窺える『世界は村上春樹をどう読むか』をお勧めする。これで駄目なら……あきらめよう。

ユリイカ2008年3月号 特集=新しい世界文学

(初出:ユリイカ2008年3月号 特集=新しい世界文学


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「ダ・ヴィンチ」六月号で紹介した本は…

ダ・ヴィンチ 2012年 06月号 [雑誌]

今月もやってきました。「ダ・ヴィンチ」のブックウォッチャーコーナー。
エントリは、われ敗れたり―コンピュータ棋戦のすべてを語る(米長 邦雄)と、痕跡本のすすめ(古沢 和宏)の二冊。

われ敗れたり―コンピュータ棋戦のすべてを語る 痕跡本のすすめ

エントリから掲載までタイムラグがあるので、選んだ本が予想以上にメジャーになっちゃったなぁ。ネットとリアルがこれだけ近くなると、さすがに「マイナーで面白いけど知られてなくて売れてない本」というのを探すのが超ムズい。マイナーで面白い本があっても、ネットでは「マイナーで面白い」ということが話題になって知れ渡っているという……。
知名度、実売、面白さ、の3つのパラメーターでいうと、知名度C、実売C、面白さA、くらいの新刊が最高なんだけど、なかなか出会えない。ネットとリアルの読者層が違うので、紹介する意味はあると思うんだけども。そんなことどうでもよくてオレが楽しくない。
なんかもう、自費出版の自伝とかそういうところにしか、本当にマイナーで面白いものは存在してねーんじゃねえかな(『本人』のコンセプトはやっぱ面白かったのかも知れない)。

それとはまた別のパターンで、「売れているのにマイナー」な本もあって、たとえばこれ

 棺一基 大道寺将司全句集

 1948年生まれ。東アジア反日武装戦線“狼”部隊のメンバーであり、お召列車爆破未遂事件(虹作戦)及び三菱重工爆破を含む3件の「連続企業爆破事件」を起こし、1975年逮捕、1979年東京地裁で死刑判決、1987年最高裁で死刑が確定した。2010年に癌(多発性骨髄腫)と判明、獄中で闘病生活を送っている。著作に『明けの星を見上げて』『死刑確定中』『友へ』『鴉の目』がある。

確定死刑囚として37年に及ぶ獄中生活を送る大道寺将司の全句集……これが売れている(アマゾンの句集ランキングでは当然一位)。経歴を見ればわかるとおり、かなりアグレッシヴで行動力のある方です。NHKの番組で紹介されたことがきっかけで売れたそうなんですが……これは「本の雑誌」とか「ダ・ヴィンチ」では特集されない。絶対されない。
いつか、こういう潜在的爆発力のある本を見つけたいと思いつつ、次回に臨みたいですね。

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人生を変えたアルバム

NEVERMIND TRIBUTE

今日4月5日は、あいつの命日だ。あいつはコバーンとかコベインとか書かれることが多いが、そんなロキノン厨的な意見はどうだっていい(同様にマスシスでもマスキスでも、シニードとかシネードとかもどうだっていい)なぜならオレはロックだからだ。数学的に考えればロックはオレ。そう、アティテュード的にロックがオレということでもある。OK。今日は音楽ライターの富田氏のメルマガに過去うpした文章を転載してみるぜ。雑多な仕事が着実にアーカイブスされつつあるウェブサイトという名の俺の墓標にGmコードをかき鳴らせ!フォーエバーピースフルワールド!ネヴァーマインドアサシン!

 


http://www.voltagenation.com/archives/622

▼ガストノッチ!(絶好調:ゼビ語)。皆様、お初にお目にかかります。パトス・ハメ愛読者の海猫沢めろんです。いつもこのメルマガを楽しみに拝見しておりましたので、こうして執筆できること、非常に嬉しく思っております。私、普段はいろんなところで小説や随筆を書いております。さっそく針の穴ほどのストライクゾーンに300㎞でデッドボールの弾幕を張りに行きたいと思います。気合いで避けてください。

▼さて人生を変えた音楽。まずは、宇宙でもっとも愚かな二足歩行生物「田舎の男子中学生」の時期からピックアップいたしましょう。

私はアニメが大好きでしたので、その延長線上で「イメージアルバム」なるものを買いあさりました。読者には無粋かも知れませんが、一応説明しておきますと、イメージアルバムとは、声優と、脚本と、楽曲を使い、低予算で作られたラジオドラマ+音楽アルバムというところでしょうか。アニメ制作より安いので、マンガや小説がメインです。その中でも、すばらしいクオリティだったのが、これ。

未来放浪ガルディーン 大歌劇

未来放浪ガルディーン 大歌劇: イメージ・アルバム

火浦功×ゆうきまさみ×出渕裕の『未来放浪ガルディーン』。90年代においては秋山瑞人の『EGコンバット』という傑作があるものの、80年代のロボットものオリジナル小説というのは、ほぼ成功しませんでした。しかし、これだけは別です。『究極超人あ〜る』のパロディ、楽屋オチ、無駄に熱い楽曲、今聞くと微妙な気分になること請け合いですが、それも含めて人生を踏み外すことになったアルバムであることは、間違いないでしょう。ラストの川村万梨阿の名曲<レッド>が熱い。

あとは、イメージアルバムではありませんが、<ドリームハンター麗夢SPECIAL>(押井映画でおなじみ川井憲次氏も作曲で参加)なども、テープが摩擦で燃え上がって練炭になるほど聞きました。

▼こうしてやがて思春期がおとずれ、若者は悩みます。毎日アニメを見つつ「どうしてぼくは生きているのだろう?」「どうして人を愛するのだろう?」「なぜ生まれてきたの?」そんな深い哲学的悩みを抱えながら、絶望的な夜のなかで人は毎日オナニーをします。「ペンギンクラブ」とともに安らかに永遠に眠ってください尾崎。

LAST TEENAGE APPEARANCE

LAST TEENAGE APPEARANCE~THE MYTH OF YUTAKA OZAKI~
このライブ盤は普段は聞くことのできない尾崎の肉声も多数はいっております。ライブ中に語りかけてくる尾崎の迫真のメッセージ。尾崎のシャウト。とくに<十七歳の地図>直前の語りは最高です。
「そいつのために……俺は命を張るッ!セブンティーンズマアアッープ!」ある意味、水木一郎のマジンガァァーゼーッ!に匹敵する魂のシャウト攻撃力三倍。

この後、尾崎が影響を受けたというジャクソン・ブラウンなどを聞いてみたりしますが「?」という疑問符しか残りませんでした。

後年、尾崎に弟のように可愛がられていたという「北の国から」の吉岡秀隆さんが<ラストソング>という名曲を歌い、女尾崎と言われた橘いずみ(須藤晃プロデュース)の<失格>がヒットしますが、いまいち尾崎スピリットを受け継いでいるという感じがしなかったところで、マクロス7の熱気バサラに尾崎のソウルを見ることになるとは、このときは思いも寄りませんでした。
FIRE BOMBERのには尾崎マインドが横溢しています。ピンク髪レオタードのミレーヌに大興奮。

▼思春期と同時に中二病も発症します。本当はエロゲーをやりたいだけなのに、難解な横文字で親をたぶらかしPCをゲットするのです。

「お父さん、これからはITの時代だからソリューションのためにキャプテンシステムを導入しなくちゃゾルゲル運動2.0しながらアセンブラでクラウドコンピューティングなんだ」「お母さん、冷蔵庫をLANケーブルでダイヤルアップ回線をつなげば野菜室とローカルでパケット通信だから二次方程式の法則で抵抗がゼロになるよ」なにひとつ意味がわかりません。

しかし圧倒的な得体の知れない情熱に負けて、親もPCを買い与えてしまいます。これは戦争や重力に魂を引かれるのと同じように、人類の背負った負の宿命と言えるでしょう。

エロゲーに精気を吸い取られスペースバンパイアと化しためろん先生を救ったのは、東芝の激安ドンシャリスピーカーから流れ出す、FM音源に彩られた幻想の旋律でした。

Ys I&II Chronicles

イースⅠⅡ サントラ

古代祐三のギターサウンドが神がかっています。思い出すだけで、ドットの荒いリリアの微笑みが浮かび胸がしめつけられます。ミスリリアコンテスト、ミス藤崎詩織コンテスト。彼女たちは今、幸せなのでしょうか。それはもう我々には知ることができないのです。祈りましょう。

さて、ファルコムの古代、コナミ矩形波倶楽部、タイトーにZUNTATA、カプコンにアルフ ライラ ワ ライラ、セガにSST BAND、ゲームミュージックも各メーカーごとに個性があります(ちなみにキリンジも元ナムコのサウンドコンポーザーです)。

ゲームミュージックの奥深い世界にのめりこみ、さらに「超音戦士ボーグマン」の主題歌により、脳内でジャパメタが密かに流行。アースシェイカーの代表曲のサウンドとともに、ギターへのあこがれが膨らみます。

人を憎む弱さを見た。もっと鮮やかに!ハッ……このサウンド……どうして涙が?そうだ!ギターだ!燃えるような赤い薔薇とともに思い出した!僕は前世アトランティスでギターをひいていたんだ!もう、歯止めが効きません。

▼そして人類で最も罪深い生き物「田舎の最低偏差値男子高校生」の時期が始まります。

バンドブームまっただ中。まわりがBOOWYや氷室、ユニコーンやジュンスカにはまっている中、なぜかここでヴィジュアル系バンドの邪眼に魅入られてしまいます。哀しき高二病。紅に染まっためろん先生の背中を慰める奴はもういません。というか最初からいません。

Xも好きでしたが、渇いた心は、もっとダークでナルシスティックで淫靡な、音楽という名の背徳の快楽を求めます。そう、すべて消え失せろ。月夜に、甘く切なく。愛は終わらない。夜風に乗せたこのメロディ。

BASILISK

D’ERLANGER * BASILISK

Xの根底にはクラシックの臭いがしますが、D’ERLANGERはポップでとても聞きやすいサウンドです。とくには今聞いても名曲。バグパイプで奏でたようなフォークロア風音色のギターが面白い。

いわゆる西のフリーウィル、東のエクスタシーという当時の二大ヴィジュアル系レーベルのどちらにも所属していなかったのがD’ERLANGER(当時、密教マニアだった私は、最澄(=ダイナマイトトミー)の興した天台宗(=フリーウィル)、空海(=YOSHIKI)の興した真言宗(=エクスタシー)として捉えていました)

ギターのCIPHER=瀧川一郎さん、に憧れますが、わたしの脳内はこうです……CIPHER=少女漫画の「CIPHER」とのつながりがあるに違いない!=こいつらはけっこうマンガが好きにちがいない!=前世の仲間だ!……無根拠すぎて、ほとんどサイコパスです。

そしてギターをコピりはじめます。Xはツインギターなので、コピーするのがちょっと面倒だったのです。なぜか同時にKATZEの(コードチェンジが比較的簡単で美しい)なんかも練習しています。

そうしているうちにやっぱりXも押さえなくてはいけないのではないかと不安になってきます。そうなるとメタルも押さえなくてはならない……という、微妙にズレた影響でイングヴェイの<トリロジースーツop3>をギターでコピーし始めます。デミニッシュやリディアンモード、脳内はクソミソモードです。

楽典を読んで楽譜を書いたりしても一小節72連符とかで真っ黒です。もう自分でも意味がわかりません。

さらにオカルト好きという余計な属性から、アレイスタ・クロウリー→ジミー・ペイジ、オジー・オズボーン……メタル人脈にたどり着きます。カオス。

毎日血がでるほどギターを引いていたのが、今ではいい想い出です。早弾きのために血の滲むようなスケール練習をしていたのに、最初に弾けるようになったのはBOOWYのNOニューヨークでした。

▼高校卒業後。頭が悪すぎて就職も進学もできなかった私は、フリーターになって毎日現場作業をこなしつつ、ホストや危険な仕事も請け負い、日本のマンチェスターとも言うべきH市で、グランジの波をもろにかぶります。ここでもニルヴァーナ……ではなく、ことごとくズレたものに魅かれます。

Where You Been

ホエア・ユー・ビーン – Where You Been

マンチェとぜんぜん関係ないアメリカです。すいません。

一曲目ののイントロが流れた瞬間、永遠のギターヒーローが誕生しました。そう、カート・コバーンに「ドラムやんねー?」と誘われて「え、だるいからやだ」と断ったJマスシス率いるダイナソーJrです。徹底的に歌にやる気がありません。

カスタムされたJAZZ MASTERのチョーキングが切り裂く、ビッグマフで歪みきったノイズ嵐。絶対に運動神経がいい人間の奏でる音楽ではありません(ブートレグのライヴ盤を聞くとリズムがぐちゃぐちゃ)。完全に人生に絶望していた私は、その中で死ぬほど下手くそな歌をだらだらと歌うJのぐだぐだなスタンスに共鳴してしまいます。

ちなみにアルバム「You’re Living All Over Me」の一曲目を聞いた瞬間も衝撃を受けました。ビッグマフ&ワウギターで、ひたすらテキトウに2コードをかきならすだけで、こんなにもかっこいいのか!

さらに知る人ぞ知るマイク・ワットの名盤「ball-hog or tugboat?」(ソニックユースも参加)の一曲目、Jがあの、ファンカデリックの名曲エディ・ヘーゼルの咽び泣くギターをカヴァー。無気力と絶望のつまった空間で、窒息しそうになりながら気怠げに吸い込む怒りと哀しみ――その果てに吹き出す血飛沫と流れる涙のような爆音ギター……なぜか私もいきなりロキノン口調です。マジでバンドやってギタリストになろうと思ったのは、これが最初で最後でした。

▼この後、しばらくグランジの流れでブリットポップ(マンサン、マニックス)。シカゴ系のアーティスト(シーアンドケイク、ジムオルーク)日本のオルタナ(グレイプバイン、ブラッド・サーズデイ・ブッチャーズ、コールター・オブ・ザ・ディーパーズ)なんかを衝撃的に聞きますが、生活は最低です。

上京後に極貧生活をなんとかするため、小説を書く……のではなくて、宅録で自分のアルバムを作って売ることを思いつき、なぜかソロプロジェクトを始めました。30近くなって無職なのに突然ひとりでアルバムを作りはじめました。偉人伝にはいつもこういう唐突な展開があるものです。

keny

ケニー・ザ・スケボーエンジェル「第二次成長期ハァハァ」メジャー盤とインディー盤

▲15曲入りアルバムmp3音源 → 【20MB Download】

人生を変えたアルバムというか、人生を変えようとして失敗したアルバムです。名前がギリギリアウトです。

MTRで作った音源をオーディオインターフェースでwavファイルにしてプレクスターのCDRで焼いただけという完全に人をナメた代物です。ミックスダウンという概念がありません。15曲入りステッカー付き500円。ジャケットは友達の同人美少女絵描きにお願いしました。青髪の美少女がシーツにくるまって全裸で微笑みます。

時代はゼロ年代初頭。50枚も売れません。演奏は中学生レベル。音源も中学高校時代のものです。中野のタコシェに置いても売れません。突然グランジかと思えばぐだぐだのポップス曲が入っていたり、ヴィジュアルっぽい歌を歌い始めたりと、ハルヒの学園祭シーンを凌駕する感動です。泣きたい。マジで。

と、ここまで書いていてめちゃくちゃ忘れていることが、まだまだあることに気づきましたが、このあとも続々あらわれる新たなるアーティストのことを語るには、どうも紙幅が尽きたようですというか紙幅なんか無限なのですが、他人のメルマガを乗っ取りそうな勢いで書きすぎているという気がするので終了します。

すいません紹介するアルバム三、四枚でという依頼だったのに気づいたら10枚以上になっていましたが、たぶん三枚が早く動いているため、分身して10枚以上に見えているんだと思います。

殺してください。

初出:2009年 冨田明宏 責任編集メールマガジン『パトス・ハメ』にて寄稿した原稿を転載。

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