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異形の愛~攻殻機動隊S.A.Cと萌え~

▼祝!
攻殻機動隊3D
公開記念として、過去に書いた「タチコマ萌え」にまつわる記事を掲載。萌え絵についての解説は、「情念定型」による説明のほうが説得力あるかもしれない。たとえば、絵画にまつわるこの対談などもあわせて読むとすごく面白いかもしれない。まあそんなわけでこれを読めばあなたのタチコマへの視線が変わるブヒ! タチコマに萌えるんだブヒ!

▼〈とにかく「攻殻機動隊 スタンドアローンコンプレックス」(以下SAC)の萌えっぷりは凄かった。のっけから実はバトーに腹違いの妹が12人いて何の脈絡もなく同居生活が始まるとか、二子多摩川に暮らすトグサの家で生まれた双子が超探偵の助手を始めるとか、過って脳核を入れたままの擬態を廃品回収に出された少佐が記憶を失い、モテない浪人生に拾われて六畳一間でツンデレぶりを発揮しまくるとか、もうとにかく凄かった。I.GがA.I.Cになってしまったのかと思った。押井守のビューティフルドリーマーがオタク的なユートピアを描いたとすれば、ある意味この作品もそれを継承していると言えよう……〉

などといった酷い記事が『ニュータイプ』とか『アニメージュ』等のアニメ誌に掲載されることなど絶対にない。なぜなら当然そんな内容ではないからだ。SACは前文のようなことが日常的に起きている萌えアニメとは一線を画している。あるいは、日本アニメにかぶれた、外人ならばこう言うかも知れない。「そういう萌え要素が一切ないのがコーカクキドウタイなのだ。やはりJapanimationはFantasticでGreatだ」と……。

攻殻機動隊が押井守作品として認知されて以来、攻殻機動隊はジャパニメーションという幻想の十字架を背負わされてきた。ポリティカルな設定や細かいディティールだけが抽出され、原作にあった影の部分とも言うべき、80年代美少女絵要素はスポイルされてしまっている。それゆえに硬派たりえているのかも知れないが、高尚になりすぎて何か本質的なものを見落としているような気がしてならない。
攻殻シリーズの一つであるSACもまた同じように高尚なアニメなのだろうか?
軟派な萌えが存在していないアニメなのだろうか?
そうではない。SACには押井の攻殻にない「萌え」がちゃんと存在している。

萌えという言葉に慣れ親しんだオタクにはいまさら感があるが、「萌えビジネス」は、いまや良くも悪くも今や日本にとっての一大コンテンツ産業になっている……らしい。大の大人が小さい子供にハァハァする姿を見るのは正直キツいが、運良くSACに存在している萌えキャラは美少女ではない。というか人間の姿すらしていない。このSACにおける萌えキャラについて考えることは、現在の「萌え」をとりまく状況を考えることとも繋がってくるのだが、その前にまず萌えというものについてざっと理解しよう。

そもそも萌えとは一体なんだろう?

簡単に言えば「架空の存在に対する恋心」だ。巷には「萌えがわからない……」と悩む方々もおられるそうだが悩む必要などない。そういう団塊世代のお父様は「萌え=恋、ラヴ、胸キュン」と思っていただいてかまわない。恋愛が成就する可能性が限りなくゼロに低いということを自覚していれば、キャバクラの姉ちゃんに対する愛情は「キャバ嬢萌え」だ。たぶん。
そしてオタクとは――歪んだ骨格、下ぶくれの頬、無駄に巨大な瞳(図1 ことぶきつかさ)――一般的尺度ではよく理解できない変わった女性に魅かれる方々のことであると思えば良いだろう(相当乱暴だが)。そういった妙な方々に特化した、カラフルかつ異形の絵(萌え絵)が甲高い声を発しながらぬるぬると動くアニメーション。それが日本における「萌えアニメ」である。

その認識を踏まえたうえでSACを見ると、少なくとも「萌えアニメ」ではないことに気づく。女性キャラ率が低いから仕方ない話ではあるが。そもそもSACの絵はいわゆる一目見て「はにゃ~」となるぶっ壊れた「萌え絵」ではなく、わりとリアルな絵なのである。アニメの絵をリアルというのもおかしいが、それは一般人の発想だ。素人でもアニメを週に10本も見ていればその差異がだんだんと分かってくるだろう。そのあたりは各々の努力に任せる。

現在のオタク市場(アニメ、ゲーム、同人誌を含む)における「萌え絵」(なんだか浮世絵みたいですね)の流れは、かなり多岐に渡るが、ここでは話を簡単にするためにめちゃめちゃ大まかに分けて二つに分類する。すなわち19世紀のフランス絵画風に言うならば、新古典主義とロマン主義である。難しく聞こえるが分類は簡単。

新古典主義=現実と連続性がある。デフォルメされても、顔や身体の配置バランスに整合性がある。要するに画力のある絵。
ロマン主義=現実から乖離している。気分とか感覚重視で、デフォルメに整合性ない。要するに画力のない絵。
あくまでこれは名前を借りているだけで、本来の新古典主義とロマン主義とは関係ないのだが、あえて強引に見つけようとするならば……オールドマスターをリスペクトし、その流れを継ごうとしたアングル(Jean Auguste Dominique Ingres 1780~1867)のような新古典的資質は、藤子不二雄(Fujio Fujiko 1952~1988)のドラえもんの流れを継ぐケロロ軍曹を描いた吉崎観音(Mine Yoshizaki 1989~)に。また、激しい感情表現を前面に押し出したドラクロワ(Ferdinand Victor Eug【eに’】ne Delacroix 1798~1863)のようなロマン主義的資質は、愛くるしい大きな瞳を過剰デフォルメした樋上いたる(Itaru Hinoue ?~)の画風にそれぞれ通じる……のかも知れない。
整合性から言えばもちろん新古典主義のほうが絵的には正しい。そして一般的には美しく見える……が、オタク世界ではなぜか整合性のないロマン主義の絵が溢れている。こっちは正直、絵の整合性は無きに等しい、デッサン力もあるとは言えない。それ故に普通の人の目には奇妙に映る。当たり前である。間違った絵なのだから。
だが「萌え絵」の世界が特殊なのは、新古典主義もロマン主義も、同じように消費されているという点だろう。客観的に見れば二分できるこの分類だが、内側にそんな分類ははなく、これらは同じ次元で消費されている。
なぜいまこのようなロマン主義絵が溢れているるのか? それをただの教養の無さや、センスや才能の無さと言ってしまうのは簡単であるが、それでは何も改善されないし話が前に進まない。ロマン主義誕生のプロセスを考えてみようではないか。

日本において子供たちが最初に出会う絵はアニメーションであることが多い。オタクたちはほとんどの場合、これを模写することで絵を学ぶ。これを真似て絵を描き始めるとどういうことが起きるか? デフォルメされたアニメ絵を模写しきる能力や絵の本質を読みとるセンスがあれば良い、だが通常はそう上手くは行かない。デフォルメされたアニメ絵をさらにデフォルメするという……つまりコピーが繰り返されることになる。コピーを繰り返せばもちろん情報は劣化していく。結論から言うと、このように伝言ゲームが変質していくように伝わった結果生まれた絵というのが巷に溢れるロマン主義の絵だということになる。

新古典主義だろうがロマン主義だろうがアニメっぽい絵というだけでも世間では風当たりが強いのに、さらに壊れているロマン主義はヘレンケラー並みの多重苦である。このようなロマン主義の絵はどれほどCGを使った塗りが上手く見えようとも、強烈な萌え要素があろうとも、本来は認められない。音程のずれた音楽が不愉快なのと同じだ。しかしながら、音楽にノイズというジャンルがあるように、暴走族が竹槍マフラーやロケットカウルを格好良いと思うのと同じように、どんな妙なものもそれを突き詰めればそこに様式美が生まれる。
一般の方々が不可解に思えるような絵にオタクが萌える理由がおわかりだろうか。

つまりまとめると、アニメの絵とは本来現実を簡略化したデフォルメ絵……であるのに、そこを理解せずに、あるときからデフォルメをただの記号と見なしてかわいい記号だけを寄せ集めて書く傾向が現れてきた。その結果、整合性を失ったフリーキーな絵が生まれ、それが様式美として機能してしまったのが現在のロマン主義シーン形成のきっかけだと言える。

ではこの混乱した奇形的シーンの中で彼らは絵の善し悪しをどう判断しているのか? そこで「萌え」の登場だ。これを数値化して基準を見いだすことは困難だが、あえて魂と言い切ってしまえば話は早い。だから言い切る。オタクは「心眼」(っていうか脊髄反射)で絵を見ているのだ。わかりにくければ「フィーリング」と言えばいいだろうか。そういう抽象的な感覚で彼らは常人には感じがたい「萌え」を感じているのである。考えているのはない、まるでブルース・リーのように「感じて」いるのだ(とかって言うと東洋的神秘を感じませんか)。

萌え絵の話はこのへんにしておこう。きりがない。そろそろSACにおける「萌えキャラ」の話に戻ろう。

単刀直入に言うが、このアニメにおける「萌えキャラ」は思考戦車であるタチコマだ。SACを見て驚いた部分は、CGでも、少佐のコスチュームでも、オペレーターのポニーテールでもない。タチコマが萌キャラっぽい声でしゃべり、そしてやけに人間的な動きをすることだった。明らかに萌える……美少女どころか生き物ですらないこのメカにあっさりやられてしまうことが衝撃的だった。

しかしこれは特殊な感情でもなんでもない。何も難しくはない。設定資料や動いていないものを見るよりも、普通にアニメを見ていただきたい。かわいいと思うはずだ。アニメ声と子供のような動き、従順なその態度はペットや幼女を思わせる。スタッフたちが攻殻世界で唯一のマスコットキャラクターにかわいらしい要素を加えようとしたのは確かだろう(ちなみに押井版の攻殻では、この役割を犬に担わそうとしていた。多分)。

ここで先程の「萌え絵」に関する話を思い出して欲しい。ロマン主義の絵とは、かわいい記号の集積が変質してフリーキーになってしまったものであるという話であった。自然主義的絵画で構成されたSACの世界で、最も奇形的な姿を与えられたタチコマと三次元のデフォルメであった二次元絵が奇形化したロマン主義絵。この二つの状況は重なる。
「萌え」とはオタクたちは気づいていないが、一般の目から見るとフリーキーなものに対する愛情と言える。だとすれば――そこに自覚的になるならばタチコマ萌えは圧倒的に正しいということになる。しかも性欲などではない分、ある意味「アガペー的萌え」と言える。これは保健体育の教科書に載っているようなピュアな愛である。つまりタチコマ萌えは小学生にも優しい健全な萌えなのである。教育委員会に推薦しよう。

このような状況を踏まえてみるとSACは、ちゃんと本質を理解しつつ、その上で多くの人に理解できるような論理的な萌え回路を用意していることが分かる。この点でもSACは素晴らしい仕事をしている。少なくとも(愛憎半ばであるが)万人受けしない妙な和製萌え萌えアニメやら、偉い海外の展覧会で絵を紹介するより、よほど日本における萌えを理解させるのには最適ではないだろうか。
重ねて言うが要するにタチコマに萌えるのは変なことじゃなくて、正しすぎるくらいに正しい。原作の80年代的美少女絵の部分は今の言葉で言い換えると明らかに「萌え」の要素だった。SACはそれを殺さずにバランス良く、批評的に処理することが出来ている。たぶん半分くらいたまたまだと思うが、その偶然がとても面白い。
まだ「萌え」という言葉がなかった時代、自分が攻殻にやられたのは緻密に描き込まれたメカやカオティックな背景、複雑な物語に惹かれたからだと思っていた。けれど思い出してみるとそうではなかった。
本当は登場人物の女の子がかわいくて仕方なかっただけだ。
自分がなけなしの小遣いを使い片田舎のアニメイトで青土社の『攻殻機動隊』を買った理由は、話が面白いからでもメカがかっこいいからでもなんでもなかった。そこに書かれた女の子が好きだっただけである(すいません士郎先生)。
大人になって攻殻機動隊を読み返すと、より深い理解をすることができ、また違った角度で楽しめる。だが絵に萌えることは出来なかった。あるのは『きまぐれオレンジロード』を再読したときと同じ、ノスタルジーだけだった。
SACは士郎正宗の攻殻と押井守の攻殻を踏襲しつつ、そこに新しい魂を生み出すことに成功した希有な作品だ。
その成功は、並列化の果てに個性を手に入れたタチコマの姿とだぶってみえる。


初出:ユリイカ

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ここは浅間山ではない

 

▼もはや定番書籍になった感のある養老猛先生の『バカの壁』であるが、たまたまテレビで「つまりバカの壁というのは固定観念のことです」と言っておるのを聞いて、なるほどと唸った。本を読まなくてもひとことで内容が分かってしまった。この本に書いてあることは要するに、食わず嫌いはいかんということなのである。そんなことは誰もが先刻承知だが、TVで食わず嫌いを題材にした企画が成り立つ程度には、世の中にはやはりまだ壁を壊せぬ方々が多いらしい。ちなみに自分は経験主義者でありバカの壁などとは無縁だ。
このあたりまで書いて、「『バカの壁』を読んでないのに読んだ気になってる自分もやっぱバカですってオチじゃねーの?」などと言っておる老獪な読者諸君の声が聞こえた。然り。が、教訓はもうひとつある。
自分は以前、自らの精液を飲んでみたことがあるが、食塩をぶち込んだ卵白のように大変しょっぱかった(ここはユリイカと叫ぶところですよ)。官能小説やエロティックなゲームの世界で精液は「苦い」というのが定番だ。やはり実践は重要である。こうした日々の探求から、小説のリアリズムというのは立ち上がってくるのだ。断言してみたものの、自信はない。
が、しかし、自分はそのとき執筆していた官能的小説に、迂闊にもなぜか「苦い精液」と記してしまった。自らが手にした真実を余人に知らしめるのがにわかに惜しくなったのだ。唾棄すべきこの事実。脳内の浅間山にて自己批判と総括の嵐が吹き荒れまくった。三日三晩悩んでたどり着いた場所、それは「まあいいや」という悟りの境地であった。つまり、自分が諸君らに伝えたい教訓とは、経験主義もほどほどにしておけということである。壊す必要のない壁もまたある。ついでながら、巷には、飲むと精液の味が良くなるという成人向け商品が存在するようだ。あるいは、偶々その日は塩味だっただけかも知れぬ。機会があればまた試してみる所存である。
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中島らも(本名:中島裕之)VS海猫沢めろん(本名:中川裕之)

▼大阪人にとって中島らもというのは不思議な存在である。
大阪にはヤクザと商人と漫才師しかいない――というのはよく言われることだが、確かにこれは事実である。私が子供の頃はこの三種類以外の職業は存在していなかった。だからコピーライターなどという横文字の職業などはむろんあるわけがない。あってもそれは東京の職業で、大阪では成立しないものだと思っていた。だがしかし、中島らもはコピーライターだった。つまり、中島らもは大阪人ではない。「ソクラテスは人間である、すべての人間は死ぬ、だからソクラテスは死ぬ」――これが三段論法であるが、これに従うと「すべての大阪人はヤクザと商人と漫才師である、中島らもはコピーライターである、だから中島らもは大阪人ではない」ということになる。論理的には。
では大阪人にとっての中島らもは一体なんだったのか。
それは、ウーパールーパーである。
寒天のようにぷるぷるした真っ白な身体、つぶらな瞳、アホ面、80年代に話題となった謎の生物。それがウーパールーパーだ。今ではメキシコサラマンダーという和名で普通に売られ、熱帯魚屋さんなどにいけば手軽に飼うことができる生物になっているが、登場当時はトカゲだかカエルだかわからないその姿にマスコミは驚き、コロコロコミックはウーパールーパーを主人公としたマンガを連載した(ドラえもんをウーパールーパーに置換したような作品であったような気がする)。無理もない。アルカイックスマイルじみた神秘的表情を浮かべたウーパールーパーは、どう見てもこの世の生物ではなく、宇宙生命体としての存在感に満ちあふれていたのだ(本当はただのサンショウウオらしいが、怪しいものだ)。
私は大阪のお好み焼き屋で、おっさんがテレビに映った中島らもを見て「確かにこいつは関西人なんやけど……どことなく関西人ではないような気もするねんなあ……」とボヤくのを聞いたことがある。確かに中島らもは変である。吉本新喜劇的な「しょうもなさ過ぎておもろい」こともあれば、東京的な「うますぎて笑えない」こともある。大阪人の粉モノに対する執着にツッコミを入れるときの、アウトサイダー的視点。常に酩酊しているようで(実際、酩酊していたのだが)なにを考えているのかわからないその顔。ウーパールーパー的という他ない。
私が中島らもと出会ったのはトイレの中だった。
子供のころ、マンガとゲームに耽溺していた私は、本など読まなかった。だが、それでも唯一本を読む場所があった。トイレである。私はなぜかストレスが腹に来るタイプで、嫌なことがあるとすぐにうんこがしたくなる。当時、一番嫌なこととは「学校へいくこと」であり、次に嫌なことが「学校でうんこをしたらいじめられる」という事実だった。そういった強迫観念から、必ず毎朝一時間近くトイレに篭もることになる。しかしそれでも、小、中合わせて九年間で五回ほどはうんこをしてしまった。幸い、職員用のトイレを使ったので同級生にはバレなかった。
うんこは脇に置いて話を戻そう。
受験生のいる家庭では、トイレやフロの中で英単語やら地理やらを覚えるのが普通のようだが、うちのトイレにはカレンダーと本しかなかった。むろん私が受験生ではなかったせいもある。並んでいたのはソローの『森の生活』や『地球に生きる』というエコロジー本、そして、中島らも『明るい悩み相談室』であった。うちの両親は大阪生まれで、中島らもと世代が近いこともあり、今思えばいかにも浪花のヒッピーが読みそうな本ばかりだったのだが、うんこしながら読むのに『明るい悩み相談室』は最適であった。そのうえ、勉強にもなった。例えば「お爺ちゃん、お婆ちゃん、お母さん、お父さん、お兄ちゃん、なぜ妹だけ〈お〉がつかないの?」という質問は(……確かに……なぜだ)とこちらを悩ませる。しかしそれに対し、中島らもは鮮やかに一休さんばりの老獪な解答で切り返す(詳しくは本を読んでください)。そんな『明るい悩み相談室』に感銘を受け、他の著作を読んだかというとそんなことはない。なぜなんだろうと考えてみるが、たぶん作者で本を読むという読み方を知らなかったのだ。読書の初心者は題名で本を選ぶ。著者名を見て内容が推測できるのは「江戸川乱歩」(乱暴なことが起きそうだ)と「団鬼六」(鬼のようなことが起きそうだ)くらいだ。
そのあとも中島らもは、人生の節々に現れた。
ある日、一人暮らししていた大阪の部屋に母親から『ガダラの豚』が送られてきたのだが、ぱらぱら見て読むのをやめた。長かったからである。その頃、私はいっぱしの読書家気取りで「中島らも? そんなヌルイもの読んでられるかよ!」といった、自尊心(中二病)も芽生えていた。あと、テーマが宗教もののように見えたので読まなかった。その数年前に、私は妙な新興宗教にハマっていて、そこで修行をしていた。だが、あるときアトランティスとムー大陸に関して教祖と意見が対立して論争になった。ちなみにアトランティスはプラトンの著書に出てくるが、ムーのほうは妖しげなイメージで、同じモノとする教祖と、文献からするとぜんぜん違う、という私と意見が対立したのである。議論はバミューダ海域に沈んだクリスタルやお互いの前世についてなど、高橋克彦か菊地秀行の伝奇ばりの展開を見せていた。このとき、大阪環状線の西九条にある六畳一間は、人類滅亡を左右するハルマゲドンの舞台と化していたが、誰も気づかなかったと思う。
そんなハルマゲドンを闘い抜き、私はそのうち社員が四人(社長、私、先輩、アルバイト)しかいないプランニング・デザイン会社の社員になった。とても嫌だった。とくに理由はなくて、会社に行くという行動そのものが嫌だったのだ。朝起きるのが嫌だった。スーツを着るのが面倒だった。通勤途中に腹痛に襲われて何度も駅のトイレでうんこをしたが、そのときにちょうど、後追いで『今夜すべてのバーで』を読んで酒が飲めたらどんなにいいだろうと思った。酒が飲めたら毎日酩酊しまくってどろどろに酔って、会社にもいかずに家に篭もってひたすら酒を飲む。病院に入院して会社が休める。そんなことを考え、駅でうんこをしていたらどうしても遅刻してしまうため、三年間勤務していて出勤時間を守ったことは一度もなかった。遅刻しなかった中学生の頃のほうがまだマシであった。
そうして出勤しても私は、「つくね」とか「炭火焼きチキン」「本格焼き鳥」などのポップを一ヶ月かけてデザインする自分の仕事に疑問を持たざるを得なかった。つくねの写真を撮りながら「いいねえ~いいよ~」「じゃあ次はこの棒をいれてみよっか?」と話しかけ、(つくねは……なぜつくねなのだろう?)と、根源的すぎて問いかけても意味がない自問自答を繰り返した。そのうち、会社近くの格安の妖しげな部屋に引っ越したが、寝ていると毎晩金縛りになり、風呂場から大量の髪の毛が出てきたりして、ノイローゼで鬱になってしまった。
エロスとタナトスが表裏なように、鬱と笑いというのも裏と表のようなものだ。普段明るい分、影は濃かった。本気で鬱なときというのは感性が全閉鎖しているので石になっているのと同じである。感受性など皆無なので本も音楽もモノの役に立たない。その状態で笑うことなど、ほとんど不可能に近い。中島らもが『明るい悩み相談室』をやめたのは鬱病のせいだったというが、私は会社をやめることなくそのまま通い続けた。なんとか鬱を乗り切るために楽しいことを考え、食品会社の毎月の食品新聞のロゴをエヴァンゲリオン風にしたり、つくねのシールデザインをアニメのロゴっぽくすることに凝りはじめた。むろん、社長がほとんどボツにした。私はほとんど廃人になっていたと思う。しかし、中島らもはその状況でも笑いを生み出した。どうやって? それは長いこと疑問だったが、近年『何がおかしい』を読んで、その謎がようやく解けた。デペイズマンを利用していたのだ。
デペイズマンというのは「手術台の上のミシンと蝙蝠傘の出会いのように美しい」のように、わけのわからないものをかけ併せて生まれる異化効果のことである。このシュールリアリズムの手法は、躁病的直観から生まれる笑いとは違い、鬱状態で無理矢理作り出す笑い独自の、どこか論理的な匂いを残す。あの笑いの謎が少し解けた気がした。もっと早く知っていれば、私もデペイズマンの手法で超ヤバイ「本格焼き鳥」や「つくね」のポップをを生み出せたのに……。
やがて、私は会社の自分の席に電子ジャーを持ち込み、米を炊くようになり、あまつさえ、その米を他の社員に売ることまではじめた。社長はそれでも我慢した。私は退社した。
そのあと、ラジオ局で放送作家のはしくれのようなことをするのだが、そこでは中島らもというのは関西のサブカルチャー的才能の代名詞だったために、プロデューサー的な人が「らもさんはさあ……」「らもさんが……」と、ことあるごとに名前を出す。無意味に神経を逆なでされたので、絶対に笑えるようなものは書かないでおこうと思った。そして書かなかった。その結果、依頼が来なくなった。
私は中島らもを憎むようになった。
しかし、大人になってから中島らもを再読したら、とても面白かった。小説を書くようになってから読んだら、もっと面白かった。その頃にはもう、中島らもを憎んではいなかった。
かように、中島らもというのは大阪人の人生と密接に関わっている。大阪人の家にはたこ焼きプレートと共に、中島らもの本が一冊あるはずだし、そこにはいろいろな想い出がある。そういうわけで、やはり、大阪人にとって中島らもは、愛すべき謎の生命体であるところのウーパールーパーなのである(ちなみにウーパールーパーの英名がアホロートルである、という事実に他意はない)。
ところでこの文章において、これまでやたらと「大阪人にとって」「大阪人から見ると」と書いてきたが、実は私が兵庫県育ちであることは内緒だ。

初出:ユリイカ

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