物語は「型」をつかって作れるかも知れない……
だが、「面白さ」はどこからやってくるのか?
その謎は「読者」を考えなければ解けない。
早くも第三回となった「読者工学論 物語を書く前に考える6つのこと」。
今回のゲストは歌人の穂村弘さんです。
ゲスト・穂村弘(ほむら・ひろし)
そもそもなんで連歌という謎のキーワードが出てきたのかというと、新城さんが昔メールゲーム(簡単に言うとハガキを使ったごっこ遊び)のゲームマスターをやっていたときに「はっ!これは連歌じゃないか!」と思ったそうなんですね。
連歌ってしりとりとかサイファみたいなもんで、集団言語遊戯なので、確かにメールゲームは近い。
短歌の世界は読者と作者が近い……というかほぼイコールで結ばれそうなジャンルなのですが、今回はそのあたりの違い。小説と短歌の面白さの比較。新城さんの言う小説エチュードとしてのツイッターと、短歌。それぞれが「面白い」と思う短歌を持ち寄り分析したり……などなど……確実に長丁場が予想されますが(前回、放課後が2時間超……)、みんなゲンロンカフェでメシ食いつつ、お話ししましょう。
海猫沢めろん×新城カズマ presents
「読者工学論 物語を書く前に考える6つのこと」
第3回(全6回)ゲスト:穂村弘
日時 2013/05/19 (日) 18:00 – 20:00
場所 ゲンロンカフェ(五反田)
前売 2500円(1drink付き)
ところで、、ベテランでも売れっ子でもない三文文士の自分が、小説技術や創作術について語ろうとした理由ってなんなんだろう? こないだからそう思っていろいろ考えていたんですが、なんとなくわかってきました。
まず言っておきたいのは「楽するため」ではない。
そうなのです。
創作術や型について考えるのは、決して「楽をするため」ではない。
執筆を簡単にしようというわけでもない。
物事はは難しければ難しいほど面白いのであるからして、そんなことをしてしまえば本末転倒なのである。
ではなんのためか?
それは、「熱を失わないため」だ。
小説を書きたい! と思ったとき、最初はみんなすごい情熱とか情念とか怨みがある。
けれど、実際に書いていくうちにそれが容易ではないことに気づき、だんだんとその熱が消えていく。
やがて熱の欠如を技術で補おうとし、それでもうまくいかずに延々と迷路を徘徊しはじめる。
ぼくはそういう迷路のなかで、疲弊してしまう人たちをいっぱい見た。自分だってそうだ。
挫折と割り切って次に進める人や、別のステージへ行けるやつはいい、でも思い詰めて絶望して命を絶つやつもいる。
ムダな努力が力になるというのは本当なんだけど、それによって失われてる情熱や純粋な魂がいかに多いことか。
ぼくが求めているのは「熱を活かすための技術」であって、単に「効率よく楽をするためだけ」のものではない。そういう奴は生まれ変わって工場のベルトコンベアとかJavaScriptになってりゃいいんだよ!人間ってのはそういうもんじゃねえだろ!
まずは、無駄なことを省くのである。
無駄なことを省いたあとは集中するのだ。険しい道であることは変わりない。
だからまずは頭を整理して、それに集中できる環境を整えようということだ。
無駄なことを考えなくていいよう。集中できるように整備する。地ならしをすること。それであとは書けばいいというようなところまでいけば、これはしめたものだ。
あとはひたすら難しい道がつづくだろう。ただしその苦しみは非常に充実したものだ。それは情熱を注ぐに値する。
そのことに早く気づければ熱は失われない。
ぼくの根底の部分に、拭いがたくあるのは「クソだろうがダメだろうが理屈が通ってなかろうが、不器用でいろいろなことをうまくやれない奴が、最後の最後にやれるのが小説というものであってほしいし、そういう奴のための小説だろうがよ!小説作法なんて知るか!」 という思いだ。こうした自分でも良く分からない逆ギレ的な熱を失わないように、いつも小説技術について考えている(いつもムカついて逆のことをしたくなる)。
「楽をするため」じゃなくて「熱を失わないため」。
そういうのがいい。