月別アーカイブ: 2011年10月

別冊文藝春秋

「今日はどのくらい書いたんだい?」
「ピリオドをひとつ打った」
「それだけかい?」
「それだけじゃない。そのピリオドを消したよ」
冗談ではなくこれは少なからぬ作家の日常です。小説を書くのは簡単です。ただ、読ませるのが難しい……そう、だけど私は負けない。毎日、改行を入れては消す仕事をしています。大丈夫、私は元気です。
ただいま発売中の別冊文藝春秋11月号にて、中村航さんと、創作についての対談をしています。
別冊文藝春秋では「新人発掘プロジェクト」なるものを開催しています。原稿を送って頂き、おもしろそうなら編集者が担当としてついて二人三脚でがんばろうという企画です。枚数は30枚からと非常に敷居も低い……ように見えますがナメていると痛い現実を見ることになるでしょう……30枚できっちり面白いものを書くのは難しい。
そんなわけで、新人さんへの応援として、「こういうことしてみるといいかも」、という話をしております。小説を書く上で創作論なんてのは実は必要ないのです。好きだったら勝手に書くだろうし、書かないならばあなたにとって、それは重要ではないのです。が、それを確認するためにも、興味おありの方はぜひどうぞ。

こちらのサイトで中がちょっと読めます。
▼別冊文藝春秋
http://www.bunshun.co.jp/mag/bessatsu/




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ニコニコ電子書籍化

 

本は滅びるのか? それとも生き残るのか?
ウンベルト・エーコは『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』のなかで、スプーンや車輪を再発明する意味なんてない。と言っています。確かに、本はハードとソフトが一体化している完成されたひとつのデバイスです……しかし……車輪やスプーンが、それ自体にしか意味がないのに対して、本というのは中身の情報のほうが重要です。さらに、本は中身によって姿を変えるものでもあります(辞書と絵本の違いを見れば明白です)。たとえば、この先、水素電池と電子ペーパーが実用化されたならばそれで文庫本を作り、随時、中身だけをダウンロードすることも可能でしょう。iPodにあたるようなデバイスが登場すればすぐに状況は変わってしまうのです。
とはいえ、それに乗っかって「本はもう終わりだ!」……などと声高に叫ぶプロパガンダは眉にツバして聞きましょう。ふつうに考えて、何事もそう簡単には滅びはしないのです。が、楽観視もできません。米国のアマゾンではすでに実体の本の売り上げを電子書籍が上回っているというデータが出ているようです(ちなみに一番のユーザーは50代以上だそうです)。理想的なのはなにかを仮想敵にすることなく、未来を見つめることなのです。というか、道具なんて適材適所だろ?(……と、いうようなことは、まあ当然、ぼくの十万倍頭の良いエーコ先生のことなので、すでに前述の書物のなかで言われているんだけど) 。

まあ、難しいことはおいといて、ニコニコが電子書籍として出ることになりました。とりあえず先行発売は、

SONYreaderの方はReaderStore
PC、スマホ、タブレット用は、大日本のhon-to.jp/

この二社。本で買うより少し安いです(1300円くらい?)。

ぼく自身の優先順位のなかでかなり高位にあるのが「やったことないことは、とりあえずやる」なので、新しい試みには積極的に参加していきたいと思います。

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Life感想戦「愛という名のもとに」

前回出演したLifeの模様が、Podcastでまとめてお聞きになれます。

文化系トークラジオLife
http://www.tbsradio.jp/life/index.html
※「愛という名のもとに」part1をダウンロードする(mp3 27’55″)
 告知だらけでも許される(ダメです!黒幕)。「愛」のあるラジオLife
※「愛という名のもとに」part2をダウンロードする(mp3 28’19″)
 様々な愛のかたち
※「愛という名のもとに」part3をダウンロードする(mp3 23’30″)
 愛とお金
※「愛という名のもとに」part4をダウンロードする(mp3 31’14″)
 「処女厨」トークに、にゃんちゅうの「知らんがな~」
※「愛という名のもとに」part5をダウンロードする(mp3 24’15″)
 「愛」と「子供」と日本の未来
※「愛という名のもとに」part6をダウンロードする(mp3 24’27″)
 「仕事」に「愛」は必要か
※「愛という名のもとに」part7(外伝1)をダウンロードする(mp3 38’03″)
 「愛」は地球を救う?
※「愛という名のもとに」part8(外伝2)をダウンロードする(mp3 33’20″)
 「愛」と「共同体」
※「愛という名のもとに」part9(外伝3)をダウンロードする(mp3 37’09″)
 二次元への高度な「愛」

主に外伝3がチャーリー×めろんの二次元愛対談となっているので……我々の次元を超えた話を聴きたい人はぜひそこだけでも。
自分用メモ――話をショートカットしすぎずもう少しわかりやすく説明する。つっかえないようにもちょっとゆっくりと話す。マイクとの距離を気にする。投げられた話題にはなるべく結論から入る――というあたりか。反射神経が鈍いのでもっと反応早くしないとな……情報の脳内ロード時間が長すぎるぜ……。以下、うまく答えられなかった部分の補足。

チャーリー「ニコニコのリュウセイは助ける人を選別している。じゃあ選ばれなかった人はどうなるのか」
これは以前の『すばる』対談の時以来の宿題になっていて、咄嗟に答がでなかったんだけど、外伝PART2でぼくなりの結論を出しています。それはぼくの中にある「偶然」を重視する思考です。
つまりぼくには愛がないので選別することができなくて、その場で偶然であった人を偶然のまま助けるしかない。チャーリーはこれを「縁」と呼んでいるわけです。でも、この親切は特に必然性がないゆえに弱い。それをどこまでやれるのか? 親切とは愛の分散処理だと思うんだけども。ではそれは、愛のような強度を持てるのか、それともそのような弱さでいいのか? 結局は決断が先延ばしにされているにすぎないのではないか? そういう疑問があるのではないかと思います。これについても、やはりぼくは偶然の側に立ちたい。ぼくの思う偶然の哲学というのは、単にたまたま出会ったから責任がないということではなく、偶然というのは結局のところ必然であるという哲学なんです。

どういうことかというと、こういうことです。
ある種の宗教というのは偶然を必然に替えることで成り立ちます。たとえば、幸運は神のご加護だとか、不幸だけどあなたがうまれてきたことには理由があるとか、そういったことです。しかし、こうした救済についての言説は、結局のところなにか弱いところを誤魔化している。ほとんどの宗教は自分たちの集団に都合の良い理由をつけて必然にしているのです。もちろんそれで救われるレベルならばいいのかも知れません。
しかし、ぼくの思う偶然とは、偶然を偶然のまま受け入れるという強度のある偶然のことなんです。偶然というのは必ず、自分が引き起こしたことであるはずなのです。つまり自分というファクターがない限り、自分にまつわるあらゆる偶然・奇跡は起こりえない。そうして俯瞰できたとき、人間は自己の運命を愛することが可能である(ニーチェがツァラトゥストラにて論じた話と同じです)。

偶然とは必然の否定である。それゆえにそれを必然と見ることがもはやすでに奇妙なことであるのですが。人はその偶然と必然を同時に生きることが可能なのです。そしてそれを認識することによって純粋な驚きが生まれます。
この驚きこそがぼくにとっては、かろうじて愛・希望と呼べるなにかではないかと思うのです。

斉藤さん「偶然を設計することは可能なのか」
これは、おそらく今のCGMやら絶対計算やらの拡がるネット環境をふまえての疑問だったのかも。それに関して言えば間違いなくYESです。たとえばアマゾンのレコメンド機能。「すげー! なんで俺の好みわかるの!? 偶然これ欲しいと思ってたんだよなー」っていうあれ。あれは、あきらかに自分のデータベースからフィードバックされたものであって、自分自身の鏡にすぎないはずなんです。それでもやはり一旦外部を経由すると違う角度で入ってくるので、これが偶然だと感じられてしまう(これは外伝PART3でのラブプラスの話とも繋がる。データベースの情報量がふえただけ、なんだけど、そのことが重要)。

では偶然と必然の確率的な線引きはどこか?
昭和初期の九鬼周造の著書にもこの問題はかかれています。偶然は計算可能か? いや無理ではないか――量子力学的現象として位置と速度の両条件を同時に決定できない(これを可能にできる仮想的存在が、いわゆるSFではおなじみのラプラスの悪魔というやつです)。そうして九鬼先生は偶然を偶然そのものとして扱えるのは哲学のほかないと断言します。とはいえ、まさか九鬼先生もこんなにPCが発達してデータマイニングが加速するとは思っていなかったでしょう……。

ところで「偶然」には、数学的・理論的偶然と、身体感覚としての偶然があると思うのです。この二つはかなり違うと思う。前者は主に無作為・ランダムと言われるものですが、ぼくらが日常で感じている偶然は後者のほうで、実は計算してみると意外と確率の高いものではないかと思います。たとえば、数学的にはたいしたことのない出来事(例えば40人のクラスで同誕生日の人がいる確率は9割)にもかかわらず、「すごい偶然」と感じることがあるわけで、そうしたことを織り込んだ社会デザインは容易いのではないでしょうか。

合理的な計算が可能になってきている社会のなかでは「偶然」すらコントロールされる運命にあると思います。例えば、コンピューター科学には「ランダマイズド・アルゴリズム」(乱択アルゴリズム)と呼ばれるアルゴリズム(算法)があります。これはプログラムで乱数を発生させるというもの(……よく考えて見ると不思議です)。偶然を取り入れる」という必然なわけです。人々が偶然だと思わされているようなことが実は必然だったりとか(原発問題とかすごくそいうのがありそう……)考え始めると恐ろしい。これは、チャーリーの考え続けている「合理的社会のなかの非合理」問題にも通じる問題じゃないかなあと。

ということで、愛について考えたLifeでしたが、相変わらず大変ためになりました。おそらくここで考えたことがまた小説にフィードバックされることでしょう。うーん、おもろい。
ぼくは昔からそうなんですが、基本的に偶然に身を任せて人生を楽しむというライフスタイルです(まあ……それゆえに昔は恐ろしい目にいっぱい遭遇したわけですが)、こうして偶然いろいろな面白い人とお話できることは非常に楽しいものです。(まだ考えたい人は以下の本がおすすめ)

   

※脱線しますが偶然について
18世紀の科学者や哲学者たちは「偶然」は存在しないと考えていました。偶然のように見えるだけで、人間には及びもつかぬ神の法則が働いている、と……むろんこの考え方はある意味その通りです(この考え方は現在「隠れた変数理論」と呼ばれているらしい)。ただし、そのためにはあらゆるパラメーターをすべて計算しなくてはならない。これは膨大すぎて扱いに不便だ。いちいちそんなことするより、確率的にふるまっているということにしておいたほうが簡単に処理できる、という合理的判断で偶然を採用しているみたいです。
スタンフォード大学の統計学者パーシ・ダイアコニスはコイン投げの訓練を重ねた結果、10回連続して同じ面を出せるようになった。もし彼とコイン投げの勝負を二、三回したくらいでは偶然負けたとしか思えないだろう。これなど訓練次第でなんとかなるという例です。

(参考文献)

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