月別アーカイブ: 2011年11月

Life感想戦「ゲームと社会設計」

ライフ

毎月一度の徹夜議論。みなさま、おつきあいいただけたでしょうか? のちほどポッドキャストで聞くリスナーもおられるかもしれませんが、やっぱりここはリアルタイムで我々の、この深夜テンションを共有していただきたいところです(まじで)。

 ・ゲーミフィケーションとルール設計

今回のテーマである「ゲームと社会設計」は、「ゲーミフィケーション」(ゲーム化)というキーワードを軸に展開しました。いろんなものをゲーム化する! ってたのしそうじゃね? よくね? ……が、ゲームを利用した社会設計という方向に持っていくと、当然ながら色々な人から疑問がたくさんでてくるわけです。例えば、僕が真っ先に思いつくのが環境管理型権力(マクドの椅子とか、モスキート音とか)とどう違うのか、という部分。

米光さん濱野さんからは、「技術なんだから良い面と悪い面があるのが当然」「いつでもやれる/やめられるのが良いゲーム」という意見が。ぼくもこれには同意です。しかし「わかっちゃいるけどやめられない!」というレベルまで没頭できるゲームこそ「死ぬほど面白い!」と言えるゲームではないだろうか。さらに、たいして面白くないのにやめられないゲームというもののほうが、現実にはすごいお金を稼いでるわけです(コインゲームとかパチンコとか)。ソーシャルゲームの隆盛を見ていると、ライトユーザーを取り込むとなると、現状、どうしてもそういう方向が強いんだよなぁ……。

じゃあ、危ないからやめたほうがいいの? それとも見切り発車でいいの? だれがゲームのルールをつくって誰が同意するのか。それがいいことなのかわるいことなのか? そんなことを考えたわけですが。そもそもなんでみんなプレイヤー視点なの? 「現実はクソゲーなら変えればいい。プレイヤーではなく、みんなはゲームデザイナーにもなれるんだ」(米光さん)。これはほんとその通りなんだけど、やっぱりデザイナーになるのは1割くらいで、多くの人はプレイヤーなのです。いや、ほんとにみんなデザイナーになって欲しい。そしてオレに面白いゲーム作って欲しい(←オレも9割のほうか)。

 ・ゲームをデザインする側になるのは難しいのだろうか?

ここで『世界ゲーム革命』という本の話題をはさみたかったのだが、音声入ってないときにちょっと話して、本編に入れ忘れてた。すまん。フォローしとく。

この本は、NHKスペシャルを書籍化したもので、論旨は明快「もはや日本はゲーム大国ではない」ということ。日本製ゲームの世界シェアは95年の7割から、09年には3割にまで減少。この理由が海外のゲームデベロッパーのレベルの高さ。海外勢の圧倒的な開発力を紹介し、世界市場では日本のゲームがセールス面で太刀打ち出来なくなってきている現状を浮き彫りにしています。なぜこんなにも差が付いてしまったのか? 番組はいくつかあるその理由を「人材育成」の部分に注目して語っています。

例としてとりあげられるのは『Gears of War』(ギアーズ・オブ・ウォー)を作った、アメリカのEpic Games(エピック・ゲームス)。この会社がすごいのは、あるパソコンゲームを買うと、そのゲームをつくるための開発環境がまるごとタダでついてくるところ。ゲームのデータは自由にいじっていいし、ネットに公開してもかまわない(売るのはもちろんダメだけど)。この目的はデファクトスタンダードをとることと、もう一つが「人材育成」だった。結果、エピックゲームスの社員の5割以上が元ユーザーである。この「なんか新しいもん作り出すのはユーザーに任せてみようぜ!」という戦略はMIT教授のエリック・フォン・ヒッペルが05年に『民主化するイノベーションの時代』で紹介した「イノベーション・デモクラティゼーション(イノベーションの民主化)」という手法で、アメリカの企業が多く採用している。

日本人はゲームデザイナーに向いていないのか? 現状を見ると確かにそう思える。けれども実際のところはそんなこともないんじゃないか? 日本でも同様のチャレンジはあった。例えば「To Heart2」を作ったアクアプラスの端末「P/ECE」なんかは端末を買うと、プログラムはもちろん、回路図までついてきた。なんでも勝手にしやがれ! という無駄なオープンソースぶり……にもかかわらず持っている人を見たことがない。やっぱり日本人には向いていないのか?? いやいや……待てよ! そんな重箱をつつくような失敗例を一般化するなよ! そうだ! そういえば「ruby」とかって日本人が作ったオープンソースじゃね? 海外でも使われてね? さっそく開発者のインタビューを見てみた。なるほど……「いびつさを恐れてはいけない」か……日本人には苦手そうだな。あと、話がずれてきたな……ゲームじゃなくなってきた。でも、さ、ガイナックスとかってファンから作る側にまわったわけだし、日本のアニメ業界なんて現場レベルではほとんど元ファンじゃん。SFだってプロはファンのなれの果てだとか言われてたんだし、小説だって書きたい人のほうが多いんじゃない? 作り手になりたい人はいっぱいいるけれど、その人たちが簡単に使える開発環境が整備されていないことは確かに問題かも知れない。オレは日本でも同じような環境を作れれば意外とうまくいくんじゃないか、なんて思うんです。だってニコ動あんな盛り上がってるじゃん? あれってインターフェースが手軽ってのもあるんじゃね? いやいや、現時点でもうオープンソースと開発環境はあるじゃないか! って? まてよそれ英語じゃねえか! わかんねえよ! 日本語で作ってくれよ! そのレベルで対応してくれ!(昔あったけどあれは無理) うーん、やっぱり、環境整備がうまくいってないだけなのか? いや、それでもダメなのか?

(ちなみに、『世界ゲーム革命』発売の時点では任天堂が3DSで失敗して落ち目な印象だったのだが、こんなニュースもあるのでまだまだ予断を許さない)

 ・ルールを設計可能にする=ゲームの開発環境もオープンにする

話をもとに戻すと、番組前に考えていた結論としては、ゲーミフィケーションを社会設計に応用するならば、それにまつわる情報が完全に可視化され、多くの人がルールを編集できることが重要なのではないだろうか? すべてを「オープンソース」「パブリック」にすることで、参加者のあいだでゲーム理論のナッシュ均衡のようなものが働いてなんとかなる!(超無責任だけど) というものです(濱野さんが仰っていたアンチをも取り込んで進化するAKBの可能性。あと、ジェフ・ジャービスの『パブリック』)。わかりやすく言うと、イメージとしてはウィキペディアなんかを思い出してほしい。新陳代謝が激しくなり、そのうち一定に落ち着く、あのかんじです。しかしそう考えながらも、「だれがゲームのルールをつくって誰が同意するのか。それがいいことなのかわるいことなのか」という疑問はやっぱりあった。

なぜそこにこだわるのか? たぶんなんだけど、チャーリーは犯人を見つけようとか、特異点を見つけたいんじゃなく、「空気をデザインする方法」について考えてたんじゃないかな(あくまでもオレがそう思っただけで、しかも空気をなんとするって……まるっきり「東のエデン」みたいな話だが)。

オレらの生きてる社会や、現実のシステムにはだいたい作った人、プログラマとか、社長とか、リーダーとかっていう、主体ある人が指令をだしている……と思われている。けど、この人達の主体性ってどっから来てるのかというと、他の人の影響、環境や空気だったりする、つまり、実は誰かひとりに問題を集約することは不可能なんです。主体性の特異点は限りなく、ないに等しい(ないとは言い切れない)。この問題はツリー構造じゃなくてグラフ構造、だから空気のことを考えないといけない。これは観念的なことじゃなくて実体験から出てくる感想なんだけど。集団のふるまいと空気、というのは先生やリーダーなど、ある程度の集団を動かす立場になった人ならわかると思う。五人以下くらいだと何も考えなくてもなんとかなるんだけど、一〇人くらいになると、かなり意識的にルールを作ったりしないとうまくいかない。しかも、常に更新して変化させないと空気に対応できないという……国の政治がうまくいかないわけだよ。こんなの無理ゲー! でもやるんだよ!

 ・結論=なるようになる、それでも最善を尽くす

当然ながらこの話には明確な答えはない。なぜならこれはゲームでもフィクションでもないし、ひとりで動かせる問題でもない(ひとつの答えとして『一般意志2.0』もすごいけど、まだまだ別の答を探せるはず)。問題は常に変化する。だからといって思考停止するんじゃない。面倒だけど、考え続けなければならない(といいつつ、ぼく自身はできることなら考えず、人と会わず、会話もせず、ひとりで引きこもってマンガアニメゲームだけやっていたい人間なのですが、天性の強力すぎる天の邪鬼気質が災いして、いつも逆のことをやってしまうんや)。いろいろな話し合いで醸成される「空気」、次の一呼吸への期待。みたいなものが番組を通して少しでもみんなに伝染してくれたらいいと思う。

ゲーミフィケーションがこれからどうなっていくのか? 考えてみたら、昔はPCなんて怪しげな機械は、頭の堅いおっさんたちにオモチャ扱いされてました。ですが今はどうでしょう? もうPCなけりゃどうにもなりません。人は良い悪いかかわらず、便利で楽なものに流れていくのです。だからもしゲーミフィケーションが便利で楽なものならば、広く普及するでしょう。そのときにはゲーミフィケーションという名前は別名になっているだろうけれども。

というわけで、オレが本当にみんなに伝えたかったこと……それは……本当は外伝3までやって、エロゲ連動型USBオナホールと3Dカスタム少女。リアルセックスコントローラー「オナコン」について語りたかった……! ゲストの米光さん、濱野さん、水無田さん、井上さん、神里さん、ありがとうございました。そしていつもの斉藤さん、速水さん、チャーリー。スタッフの皆様。またぜひともスタジオで!


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Life「ゲームと社会設計」出演予定

ライフ

今月のLifeは

「ゲームと社会設計」

※「ゲームと社会設計」予告編をダウンロードする(mp3 39″28″)
↑をクリック  (※今回ちょっと音質が悪いです。すみません)

11月27日(日) 深夜25:00~28:00 (=月曜1:00~)

出演予定:鈴木謙介、米光一成、水無田気流、濱野智史、
海猫沢めろん、速水健朗、斎藤哲也ほか

予告編の出演:鈴木謙介、速水健朗、斎藤哲也、伊藤聡、
寺澤さやか(論壇女子部)、長谷川P(黒幕)

Ustreamによる動画生中継も行います⇒ http://ustre.am/lrQf

※ストリーミング中継も実施しますので、ラジオをお持ちでない方も、
パソコンとネット環境があればリアルタイムでトークを聴くことができます。
サイト右上の「スペシャルなお知らせ」をクリックしてください。
著作権の関係で音楽は聴くことができません。

※ラジコでは音楽も聴けます。

ということで今回のLifeはゲーム! 近々、集英社の「青春と読書」でエッセイの連載を始めさせていただくのですが、編集さんと話していた一回目のテーマが「ゲーミフィケーション」(いろんなものをゲーム化すること)ということで、偶然にもかぶりました。ここのところ、WEBとソーシャルメディア、携帯電話などの登場でゲームと社会の関わりが変化し、かなりおもしろい未来予測が出てきています。ニュースにもなった「foldit」によるタンパク質の三次元解析(詳しくはググッて!)このサイトhttp://fold.it/portal/で体験してみてください。そして、今回のゲストの皆様がきっとみんな読んでいる本はコレ。

僕はこの人の存在を『NHKスペシャル 世界ゲーム革命』で知りました。そして彼女が作っているゲームがこの「EVOKE」(http://www.urgentevoke.com/)です。日本でもこういうのやったらおもしろいのに。ARGとして以前から存在している「ジオキャッシング」(http://geocaching-jp.com/)などと結びつけたりできそう。

そんなわけで、ぜひともみなさまもゲームにまつわる思い出、メールしてみてください。詳しくはLifeのサイトにて(http://www.tbsradio.jp/life/2011/11/post_186.html)。

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書評『星座からみた地球』


いきなり登場人物の名前が「A」なのである。
次に現れるのは「B」で、こうなってくると、もちろん「C」が登場し、最後は「D」というわけだ。こうして物語は始まる。と言いたいところだが、始まりはしない。かといって終わるわけでもない。このような曖昧で抽象的な言葉は、書評としてはいかがなものかと思ってはみるものの、ほかに説明のしようがない。あらゆる小説がそうであるように、とにかく先を知るには文章を読み進めていくしかないわけで、当然読み進める。しかしこの作品に限っては、読めば読むほど登場人物への理解が深まるどころか、謎のほうが深まっていく。
どこかとぼけた語り口は、右に顕微鏡、左に望遠鏡のついた眼鏡をかけて物事を見るように、三人称と一人称をふらふらと往来し、AやBやCやDが少年なのか少女なのかは途中までわからず、何歳なのかもわからない。それが読みとれるような文章が出てきたかと思えばすぐに場面転換。過去なのか未来なのか定かではない場所に飛び、彼らの個性は逃げ水のように消えてしまう。記号的な個性で思い出される作品といえば、ブルー、ホワイト、ブラック、ブラウンの登場人物紹介から始まるポール・オースターの『幽霊たち』だが、そこでは名前に付随する個性が、まだかろうじて残されていた。しかし本作で使われているABCDという記号は、純粋な関数としての記号だ。要するに、ABCDはべつにだれだっていいのである。
幽霊のような抽象的な名前、小さな差異と大きな差異、子供のあたまのなかのような、無邪気な世界にひたるうちに、細かいことなど忘れ、気づくと、語り手と語られている人物はおろか、読み手のこちらまで、抽象的な記号に閉じこめられてしまう。そのなかで思い出すのは、友達が帰り、だれもいなくなった静かな部屋にひとりたたずむ、誰しもが子供時代に味わったことのある、あの、懐かしくもせつない感覚。そして、伝わってくるのは、言葉にできないものを言葉にしようとする、作者自身のもどかしさだ。
小説は自由だが、それゆえに不自由だ。なにを書いても良いが、すべての形が書き尽くされている。どんな前衛的なものだろうと、なにかに似たものでしかありえない。小説にはきまった形があるわけではないし、どのように書こうが小説だといえば小説になりうる。自由の不自由。それは現代の作家にとっては自明なことであり、むしろそこからどう小説を始めるかのほうが問題なのだ。けれどこの作品では、作家自身がその自明さを疑い、別のスタート地点を発見しようとしている。無謀だろうか。だが、この小説は、名前という、意味を失った登場人物たちの悲しみではなく、その先の可能性にたどりつく。
名もない星たちを線で結んで名付けるように、文字をなぞり、最後の一行を読んだあなたは、誰でもないはずの彼らの名前をみつけるだろう。

   


初出:文藝
初出:『文藝』 2010年秋季号

(このエントリは、福永さんの新刊『一一一一一(イチイチイチイチイチ)』を応援して11月11日11時11分に投稿されました)

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野間文芸新人賞

この文章は予約投稿である。
11月7日の4時ごろ投稿される予定だ。

短編集『愛についての感じ』が野間文芸新人賞候補に選ばれました(装丁:名久井、装画:市川春子)。
最現時点でこれを書いているのは11月4日の俺なのだが。11月7日の俺は、自宅で野間文芸賞の選考結果を待っていることだろう。結果はどうにせよ、新聞やネットで俺の名前を見た情報弱者が、サーチエンジンで「海猫沢めろん」という名前をうろ覚えで入力し、「海老沢まろん」とか「猫沢メロン」とか「猫村さん」になっちゃってる最中だろう。
そんなふうに偶然ここにいらした皆様、ぜひ本を手にとって読んでみてください。

この本を愛してくださった読者の方々にありがとうを。

(追記:落ちた)

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